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作成した小説を保管・公開しているブログです。 現在は連作短編が二篇の他,短編小説,エッセイの類を掲載しています。 連作小説の更新ペースは随時。二か月に三回を最低ラインとして目指しています。
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ネガイカナヘバ11
黒猫堂怪奇絵巻6話目 ネガイカナヘバ掲載11回目です。
ここで本編は終わりで、次がエピローグ。
紙媒体でまとめてリライトしたうえで、販売できたらいいなって思う量になりました。
なお、ネガイカナヘバは、キルロイと合わせて、陽波高校七不思議編というくくりになっています。

ネガイカナヘバ1
ネガイカナヘバ2
ネガイカナヘバ3
ネガイカナヘバ4
ネガイカナヘバ5
ネガイカナヘバ6
ネガイカナヘバ7
ネガイカナヘバ8
ネガイカナヘバ9
ネガイカナヘバ10

今までの黒猫堂怪奇絵巻
黒猫堂怪奇絵巻1 煙々羅
黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る
黒猫堂怪奇絵巻3 とおりゃんせ
黒猫堂怪奇絵巻4 迷い家
黒猫堂怪奇絵巻4.5 薄闇は隣で嗤う
黒猫堂怪奇絵巻5 キルロイ
―――――――――



美術室の窓からは、校庭に満ちた紫の水の様子がよく見えた。まるで栓を抜いた風呂桶のように、水が校舎の方へと流れている。校舎に入る前に比べると幾分か水位が落ちているように見えるが、校庭が干上がるようには思えない。
 紫色の靄に包まれ、夜空を見ることすらできなかった空は、靄が掻き消え、代わりに校庭を鏡写しにしたような水面が広がっていた。校舎に向かって流れていく地上の水と違い、校舎から放射状に広がっている。
 それほどに外がはっきりと見えるにも関わらず、美術室内は暗く、目の前の机ですら影に呑まれて輪郭があやふやだった。
 その中で、窓際に置かれた一脚の椅子だけが目を惹く。その椅子には、陽波高校の制服を着た女子生徒が座っている。脚はだらりと前に放り投げられており、身体が腰までずり下がっている。背中は背もたれにぴったりとついているように見えるが、首は力なく前に垂れていた。前髪で顔が隠れており、彼女がどのような表情をしているのかわからない。
 さらに、彼女の首元には他人の腕が巻き付いている。椅子の後ろから彼女を抱いている何者かがいるはずなのに、見えるのはその腕だけで、背後にいる人間の姿は見えない。
 だが、そこに怪異の気配はない。美術室の中には、校舎の中のような声がない。携帯端末の電源を入れて、さっとあたりを見回してみるが、やはり、ARによる書き込みは存在しない。
 当然、椅子に座る女子生徒の背後にも人影はない。
「君が、キルロイか」
 窓際の生徒に声をかけてみる。だが、生徒には秋山の問いは届かないのか、反応がない。
「今の彼女にそんな問いかけは無意味だよ。彼女の心はそこにはないのだから」
 聞こえてくるのは、女性の声だ。それも、若い。声の感じからすると、香月と変わらないくらいだろうか。
「彼女が誰なのか、私が誰なのか知りたいのだろう。いいや、君たちは、この高校内に巣食う怪異を探しに来たのだったか」
「少なくても、あなたは僕が探しているものではないな」
「そう。君たちも、あれをキルロイと呼ぶのか。意外だな。秋山恭輔、君は怪異にそういう名づけをするタイプじゃないと思っていた」
 女子生徒を抱いていた腕の気配が濃くなり、窓際の一角が黒く染まる。空気の中に突然何かが割って入ったような違和感。黒は輪郭を整え、人間の形に変わっていく。
 黒の中から現れたのは、椅子に座る女子生徒と同じ陽波高校の制服を着た女生徒だ。眉にかかるくらいの髪が真横に整えられていて、顔も腕も青白い。まるで人形だ。
「ああ、気にしないでくれ。この異界は少し、声が煩くてね。あまり長くいると、こうして生気を失っていくんだ。上書きされていく、というほうが正しいのかもしれないがね
 私も、元々はこういう話し方はしない。もっと普通の健やかな女子高校生なんだよ。
 にわかには信じられないって顔しているな。まあ、いいさ。君はキルロイを探しているのだろう。察しの通り、私はキルロイではない。彼を見つけたいのであれば、こちらではなく武道館に向かうべきだった。彼は君たちの仲間といる。彼自身の願いを叶えるためにね」
 願い? 
「なんだ。そんなに不思議かい。ここは陽波高校七不思議を辿ったものがたどり着く場所だ。まあ、多少様子が違うことがあるが。君たちもここまで来たということは、七不思議が何をするためのものか、知っているんだろう」
 声は秋山を試している。秋山を足止めするためか。それならば、二つに道を分ける意味がない。武道館へ繋がる道を示したのなら、怪異の中心、宿主から遠ざける意図はない。
「ふふっ。秋山、君は案外顔に出るといわれないか。それとも、これは私が異界の影響を受けすぎたせいか。どうやら後者のようだな。君の考えていることは手に取るようにわかるよ。正確には、君の考えがこの両目に映っているのだけれどね」
 声の主は、椅子に座った生徒から離れて、窓から差し込む明かりの下にその姿を晒した。
 青白い死人の肌に張り付いた両目は、彼女の手とは別の人間の手によって塞がれている。手首から先は半透明に透けているものの、窓ガラスへと繋がっている。
「理科室の窓には自殺した男子生徒が貼りついている。それが、その生徒の腕というわけか」
 もう一度携帯端末で美術室の周りを確認する。先ほどの理科室のように考えが壁に張り付いている様子はない。
 しかし、彼女はこちらの考えが読めているという。ハッタリの可能性もあるが、おそらくは両目を塞ぐあの手の影響だろう。彼女は、秋山よりも一段階深く、陽波高校七不思議に囚われている。
「そうだよ。風見山の迷い家の時から思っていた。君は、ほかの祓い師よりも直感に優れている。向田涼子は相当慎重に事を運んでいたんだ。それでも、君は迷い家を見つけだした。実験は成功したといえる結果ではあったが、あれほど早く異界が見つかるのは想定外だった。
今回もそうだ。香月フブキの介入だけであれば、こうもことを急ぐことはなかった。じっくりと、そこの生徒を核にして、彼の、キルロイの望みを叶えることができたのだ。それを奴らが余計な工作をするものだから。
話が横道に逸れてしまったな。ここが願いを叶えるということについて、違和感があったのだろう。だが、忘れたのか、二月正が書いた陽波高校七不思議、私たちが書き換えた陽波高校七不思議の内容を。それとも、君は二月正があの七不思議を書いた本当の意図に気が付いていないのか」
二月正の意図。それならわかっているつもりだ。
「もともとの二月正、如月真の思惑は、この異界を他者に認識させることだろう。陽波高校七不思議は、彼女の想像で作られたものでも、校内の取材を経て作られたものでもない。あの本は、如月真、彼女自身が実際に遭遇し、迷い込んだ異界の風景を淡々と描いたものだ。
 そして、現在の二月正。陽波高校美術教師、如月一は、七不思議によって生まれたこの異界を再び封じることをもくろんでいる。そこが、この異界を利用して怪異を生み出そうとしているあなたたちの思惑とずれている、そういう図式じゃあないのか」
「概ねその通りだよ。香月フブキが掴んだ情報はあくまで断片に過ぎないのに、よくそこまで考えがまとまるものだ。一度迷い家を見てきたことが思考を整理するキーになっているのかな
 その洞察力に敬意を評して、君が見落としていることを教えてやろう、秋山恭輔」
 彼女はそう言うと大仰に両手を広げる。まるでこれから劇でもはじめるかのようだ。
「陽波高校七不思議は、君の言う通り如月真の経験を元に作られている。だがな、彼女がこれを作った目的は、七不思議の認知者を増やし、七不思議に憑かれた人間を増やすことにあったんだ。君たちもここに来るまでの間に書き込まれた言葉の数々を見てきただろう。
あれらはこの異界に接触した者から抜け出る、この異界が奪った感情だ。七不思議は学生や教師たちの感情をかすめ取り、ため込み続けていた。
秋山、君は知っているか。一般にこの学校がどのような評価を受けているか」
――生徒たちは、三年かけて教師に叩かれて、卒業時には立派に進学。陽波高校の進学率は市内トップなの。
 フブキが話していた陽波高校の評判を思いだす。その評判と怪異に関連性があるとは考えてこなかった。だが、目の前の少女は、その評判には怪異が関係するという。
 まるで、この異界ははるか昔から陽波高校の中に存在し続けていたようではないか。
「まさか、二月正が七不思議を書いた理由というのはそういうこと、なのか」
 だが、その仮説は、少女がこの異界を願いを叶える場所だと語ることとかみ合わない。
「そうでもないさ。二月正本人はもうここにはいない。誰に尋ねても本当のところはわからないが、君が今、考えた通り、初めの二月正が描き記した陽波高校七不思議は、告発の書だよ。世間からの評判とは異なる、校内にいるからこそわかる歪み、彼女はここに迷い込んだことで、陽波高校がどうしてそういう評判を保っていたのか、そのカラクリに気が付いたんだ。
 外を見たまえよ。どうしてあれだけの無関係な大人がこの学校の異界化に吸い寄せられてくるのか私たちが怪異をばらまいたからか? 香月フブキは校外に現れた鬼憑きをいったい何体見た? 彼女が見た鬼憑きは、本当に怪異に憑かれた宿主だったか?
 彼らはみな、過去、この異界に迷い込んだ被害者たちだ。この学校はずっと昔から人の心を喰らい続けているんだ。
 そして、二月正はその実態を告発することを望み、七不思議を書いたんだ」
 つまり、陽波高校七不思議とは、二月正の望みそのものであり、その属性が、現在の七不思議に引き継がれている?
「それは不自然だ。怪異を為す物語が宿主たる人間の影響を受けるというのは理解ができる。だが、二月正、如月真は既に存在していないのであれば、この異界は別の宿主に憑き、その宿主の影響を……まて、まさか告発した結果、七不思議は形を変えたということか」
 陽波七不思議が告発の書なのだとすれば、それを読んだ学生たちの幾人かは、陽波高校内で意識的に、あるいは無意識的に行われている教育の正体に気が付いたはずだ。そして、彼らは如月真に導かれて異界に足を踏み入れる。
 そのうち何人かは宿主としての適性を持ち、異界に影響を与えるかもしれない。また何人かは、少女の言う通り、異界に心を奪われ、フブキが出会った鬼憑きたちのようになるかもしれない。両者は入り乱れ、『学校』という空間に戻っていく。
 そうして、噂は変容し、現れる宿主たちの認識により歪んでいく。
「学生の声、教師の声。願望を奪いため込む装置。もしその装置がため込んだ願望を吐き出したらどうなるか」
 いずれ学生の誰かが考え始めてもおかしくはない。
そして、告発の書は、願いを叶える呪術の書へと姿を変える。
「どうやら理解したようだな。秋山恭輔。残念ながら、ここにはキルロイはいない。だから、この異界を理解した君に対して、彼の代わりに私が問うてやろう。
君の願いを言いたまえよ。秋山恭輔」
 劇の終幕を訴えるような大仰な素振り。こちらに情報を与え、誘導するような言動。異界の中にいれば、その身振り手振りは、現実よりも強く、相手方の心に届く。
 これは、自分たちと同じように呪術を操る者のやり方だ。怪異憑きのやり方じゃない。そして、少女がキルロイの代わりだというのなら、キルロイもやはり怪異憑きではない。
フブキが行き詰ったのも当たり前だ。ここには初めから怪異憑きがいないのだから。
「とんだ茶番だ。僕の願いを聞く前に、君自身の願いを言ったらどうだ」
「おや、願いを答えられないのであれば、ここは君の感情を奪う。君はこの閉じゆく異界の中で眠り続けることになる。それはそれで」
「構わないわけがないだろう。あんたはこの異界を制御できない。キルロイは単に異界の性質を利用していただけだ。彼自身の願いを叶えるため、あんたもさっきそう言っただろう。だが、これだけの規模で放置された異界だ。怪異としての形を持とうにも受け入れられる宿主は早々いない。お前の仲間が外からも人間を引きこむ選択をしたのは正しいよ。一人で足りないのであれば、複数人集めればいい」
 それは、如月一も知っていたはずだ。彼がそれを選択しなかったのは、異界を閉じるためだと思っていた。だが、閉じるといっても、方法はいくつもある。
 キルロイはここにたどり着いたものに願いを尋ねた。そして、願いを答えられたものには、異界がその力を貸した。秋山が迷い込んだ迷い家と同じように、これは、宿主の適性を探すための儀式だ。
 しかし、今、この美術室にいるのはキルロイに手を貸したであろう目を塞がれた少女と、椅子に座り意識を失ったように座り込んだ生徒だけ。
複数人の宿主を用いず、広がった異界を閉じる方法。彼がもっとも願うであろう選択。
「二月正、如月一は、姉を作りなおすつもりか」
 秋山の言葉に、少女の顔が醜く歪んだ。
「さあね、私の知ったことではないよ。さあ、秋山、願いを叶えるか、異界で眠りにつくか、早く選びなよ」
 まるで好きな子を誰かに取られたかのようだ。思わず肩をすくめてしまう。おそらく、椅子に座った生徒が如月が選んだ宿主、姉のベースにするための生徒だったのだろう。それが、誰の思惑か、香月フブキのいる武道館に、怪異の中心が移ってしまった。
 おそらくはフブキだろう。性質の悪い水蛟の使い方をしたに違いない。それで、如月は急きょフブキを核にしようと武道館へと向かった。少女はその後、この美術室を訪れた。キルロイを使って窮地を脱しようと思ったのだろう。
「僕の願いは、君の願いを聞くことだ」
 少女は窓際へ後退りをする。
「違う」
「否定されても困る。僕は、祓い師であって、異界と一緒に眠りにつくのは趣味じゃない。そうならないために願いが必要だというのなら、今の僕の願いは、君の願いを聞くことだよ」
「そんなわけがない。武道館にいる仲間はいいのか、香月フブキは」
 必死に話題が自分に向くのを避けようとする。異界は秋山の願いを叶えるような変化を見せてはいない。願いを叶える力を失いつつあるのか、または叶える願いにも制約があるのか。
「フブキは気にしなくていい。彼女は、この手の案件とは相性が悪いが、如月が姉を作りなおすためにフブキを使っているなら、話は別なんだ。彼女は、そういう手合いに呑まれるような性質じゃない」
「なら、自身の願いはないのか」
「だから、諦めろよ。僕は今、君の願いを聞きたい。それが僕の望みなんだ。それとも、もしかして君は願いをなくしてしまったのかい」
 少女は両手で頭を抱えて何事かを叫んだ。彼女の目を覆っていた手と同じものが、身体中に現れる。それらは全て窓ガラスから彼女に手を伸ばし、その体をがっしりと捕えた。
「厭だ。厭だ厭だ。私はまだ生き残るぞ。名無しやムジナの駒などでは終わらない。向田涼子のようにはならない。私は、私は」
 少女の身体が窓に触れると、彼女を掴んだ手と同じように色を失い透き通っていく。そのことに気が付いた彼女は叫び声をあげた。だが、声を上げればあげるほど、手は彼女を窓の中へと引きずり込んでいく。
「助けてくれ! 私を誰か、誰かここから! 話す! 私の知っていることなら、全て話す」
 潮時か。秋山は両手に掴んでいた呪符を窓際に向かって放とうとした。
 だが、何者かの手がそれを阻む。手の主は、秋山の隣で彼に囁いた。

「紀本カナエは何者にもなれず、この状況から救われることはない。彼女は既に、陽波高校七不思議の一部なのだから。君が気負いすることはないよ、秋山恭輔。全ては彼女が悪い。私たちを出し抜けるなんて、本気で思っていたのだからね」
 ほら、もう彼女は窓の中だ。地面に落ちることがないだけ、幸せだったんじゃないかな。

*****
 イチは、私の一番だからイチなのよ
 数字の一でイチ。ハジメと呼ぶのが通常なのに、両親が敢えてイチという呼び名に決めたのは、単純に語の響きがよかったからだという。音を始めに決めて、ほど良い漢字が見つからなかったので、漢数字の一を使ったという。
 長男ではあるが、姉がいる。家を継ぐという発想が生まれるほどの財産は持っていない。両親は共に姉には過干渉だったが、その反動か弟には干渉しなかった。関心がなかったといってもいいほどだ。だから、如月家ではイチという名前にこれといった願いはこめられていない。
 姉にそのような思いを吐露したのは中学のときだろうか。
 なんでそんな話になったのか、その経緯を思い出すことはできない。ただ、姉は私のその訴えに頷き、泣き出しそうだった私に対して、その言葉をかけた。

「イチは私の一番だって言ったでしょう。こうやって手を差し伸べてくれる」

 武道館の床から噴き出た生徒たちの嘆きの声は、液体のような質感だ。香月フブキの足元から吹き上がるそれは、彼女の身体を包み込み、漏れた声は天井へ向かって噴き上げている。水柱の中の香月フブキは、如月の目をじっと見ている。
「遅れてすまなかったよ。少々邪魔が入ってしまったからね」
 如月は武道館の入口で立ち尽くす、火群たまきと秋マコトを睨んだ。秋は怪異に出会うのは初めてだろう。状況が分からず混乱している。自分が何をされたのかわからないはずだ。
 だが、火群はまだこちらの拘束を解こうともがいている様子が見える。動きを封じられた彼らからは見えないが、火群と秋は武道館の天井から延びた細い水の流れに絡めとられて身体の自由を奪われている。
 彼らより一足早くここにたどり着いた時、如月もまた同じものに襲われた。敷地内は急速な異界化が進んでしまったが、校庭を満たしていたあの水には、そのような能力はなかった。
 香月フブキを通して空へと流れ落ちた水だけが、あのような性質を持つ。彼女の身体を通して、異界は性質を変化させた。
 宿主の影響で怪異はモチーフから離れた性質を持つことがある。紀本カナエが如月に語ったとおりの現象だ。香月フブキのイメージか、または彼女が地面に突き刺した呪物の影響か。
 いずれにせよ、それが行おうとしていたことは想像がつく。天井に集められた生徒の声は、地上を満たす水と性質が異なる。香月フブキを通して全ての声を吸い上げることで、全く異なる異界を、怪異を生み出すつもりだ。
 如月が初めに予定していた形とは異なるが、香月のおかげで、彼女の身体には姉が宿った。この契機を逃すつもりは如月にはなかった。
 紀本とその仲間から呪術の基点となる媒介が必要といわれたので、この本を選んだ。思えば、自分は初めからこの光景を望んでいたのかもしれない。
 異界を閉じることや、生徒たちの願いを問うことなどは、過程に過ぎなかった。彼女を目の前にすると、そうとしか思えなくなってくる。
「姉さん。この異界は、姐さんが思っていたものとは違う形になった。ここは、僕らの願いを叶えてくれるんだ」
 本を水柱に向け、祝詞を唱える。武道館へ集まる水に乗せて、校舎のあちこちに埋め込んだ如月自身の言葉を惹き寄せる。言葉は水柱へと流れ込み、香月フブキの身体に絡みついた。
香月フブキの役割を媒介から依代へと書き換える。
「さあ、姉さん。僕は、あなたをここから救い出すよ」
 彼女の望み通り、水柱の中に手を突っ込む。先ほどのように水の流れに弾かれることはない。如月の手に纏わりついた彼自身の言葉が水柱とぶつかり、それを中和する。
 皮肉にも、学校の中では教師の言葉は生徒の言葉よりも強い。どれだけの言葉がぶつけられようとも、教師として発した如月の言葉にぶつかれば、砕けて消えてしまう。
 掌が、香月フブキの頬に触れる。姉にしてもらったように、彼女の目元を指で撫でる。水の中で、彼女の瞼がゆっくりと開いていく。瞳の奥には単なる媒介ではありえない、何者かの意思の光が宿っている。あとは、その名を呼ぶだけだ。
「如月真」
 名前は存在を縛り付ける。火群に語ったその言葉には嘘はない。

*****
「二月正。私はあなたの本名を知らない。けれども、あなたが何を考えているのかはなんとなくわかる。拒絶して、無視をしたところで遅い。
 あなたは私の中で散々自分の声をまき散らしたのだから。どんな人間なのかわからないわけがないじゃない。
 今更逃げても無駄だ。私を乗っ取ろうとしたことを、後悔させてあげる」
 樹木に成った果実は、私に向けていた目を閉じて、沈黙を貫いている。フブキは、その身を手に取って、力任せに握りつぶした。
 握りつぶす瞬間、フブキの腕が白虎に変じたが、気にならなかった。
 果実は粉々に潰れたが、二月正の気配は消えない。白虎に変化した左腕に、数個の眼球が現れて瞬きをした。
「そう。そこに動いたの。でも、虎はあなた程度では押さえられないよ。自分で力を引き受けることもしなかったあなたは、宿見香代より弱い」
 そして、水蛟を振るいながら、水蛟と、斬り伏せた怪異たちを押さえつけようとした私も、彼女より弱かった。彼女ですら抑えきれなかった虎の影響を、抑えられるわけがない。
 そう思ってしまうと、すっきりした。怖がらないようにする? そんなのは無理だ。この左腕に憑いているのは、獣であり、純粋な力。怖いのは当然だ。
 腕が唸り声を上げるように震えると、表面についていた眼は気配を消した。
「あなたも、力には抗えない。これを受け止められるような器がない。それだけじゃない、あなたは、あなたを想う人の言葉すら、まともに受け止められない」
 声の奔流の中で一瞬垣間見えた、青年の顔。彼は、フブキの身体に宿った二月正の面影を見て、愛おしそうな視線を向けた。
 だが、二月正は真っ向から彼の視線に答えない。声を集め、彼を遠ざけ、それでいて、彼がフブキの身体ごと、二月正を手に入れることを待っている。
 それはとても卑怯だと思う。
 フブキは、足元に向けて左腕を突き出した。樹木の根を掴み、力をこめる。白虎の腕が樹木と癒着し、混ざりあう。
 根から幹にかけて、あちらこちらと白い痕が入っていく。人面樹の中に流れ込んだ虎の力を避けるように、枝の端で早回しのビデオのように実が大きくなっていく。丸々と成熟した果実は、枝をしならせる。果実は実の形を変え、枝に巻き付き、落ちないように堪えていた。
 あくまでフブキの力を使って形を成すつもりらしい。幹を覆う虎の力を枝まで伸ばしていく。大きな果実がなった枝にも白い筋が入る。
果実は不自然に揺れて、その重量に任せて枝を折る。下へ落ちる過程で大きく膨れ上がり、果実は肌色の肢体を手に入れる。
表面の質感がつるりとした、マネキンのような肢体。何度か震えると表面の皮が、トマトのように剥けていく。中から出てくるのは、フブキの知らない生身の女性だ。
「あなたが二月正」
 果実から生まれ出た女性は裸体のまま立ち上がり、フブキの前に立った。フブキよりも少し背が高い。眼と口の部分は中身がなくて暗い穴が開いている。果実や虎の表面にいた時のような意思の宿った瞳はない。
 そのかわり、肢体全体が彼女の意思を宿している。フブキの中にいるのに、フブキとは異なる異物であると主張している。
「私が、香月フブキよ」
 喉の奥でごぼごぼと水が詰まったような音を立てて、彼女は自らをフブキだと名乗った。
 あくまで、フブキの身体を手に入れる。そういう意思表示だ。
 けれど。
「私、悪いけれど、あの先生のことは好きじゃないの。美術の課題にあんな絵を提示するのはちょっとどうかと思うし。何より、生徒に姉の姿を見るっていうのは、気持ち悪いよ」
 美奈ならきっとそう言うに違いない。友人の口調を真似て二月正に拒絶の言葉を投げると、彼女は暗い口を大きく開いた。
 フブキと彼女の周囲を囲んでいた声の流れが、彼女の動きに合わせて、フブキに集中する。フブキは大量の声の奔流に呑まれた。
 だが、先ほどまでとは違う。人面樹と同化した左腕は、がっしりと根と癒着しており、フブキの身体をその場に繋ぎ止めた。
「そうやって、自分の言葉を持たないあなたが、七不思議に取りこまれたのは当然だよ。あなたには、他者と向き合うだけの自我がない。あなたは、ここにはいない」
 単に怪異に名前を付けるだけでは祓うことはできない。名前を付け、形を与えるためには、怪異の本質を捉えなければならない。
 それを捉えられていなければ、どんな名前も怪異を縛ることはない。
 秋山恭輔の言葉が蘇る。フブキは、今、二月正の本質を捉えられているだろうか。しかし、迷っている暇はない。彼女が、二月正がその本質をフブキにぶつけた今しか、彼女を捉える隙はない。ここを逃せば、彼女はフブキを乗っ取るか、再びフブキの中に隠れるだろう。
「二月正。あなたは既にここにはいない。現にも、異界にも、二月正という人間の魂は存在しない。あなたは影。陽波高校七不思議の中に映る、過去に過ぎない。
 祓い師香月フブキの名の下に、あなたの正体をここに明かす。名はウツシミ。他者の記憶に憑き、他者の言葉で騙り、人の感情を奪う。あなたは只の虚ろな怪異だ」

*****
 名を与えた途端、彼女の両目から、紫色の水があふれ出す。フブキに向かって流れていた声は水と融けあい、激流に姿を変える。左腕と同化した人面樹が激流に押され、根元から折れ、フブキの身体は激流に呑まれて彼方へと押し流されようとしていた。
「ウツシミ。ここはあなたのいる場所じゃない。あなたも、あなたを生んだ異界も、全て私が祓ってあげる」
 激流はウツシミが見せる幻だ。フブキはただ、フブキとして、自分を取り戻すだけでいい。
 左手に触りなれた柄の感覚が戻ってくる。柄を通して、異界に閉じ込められた生徒の声が上ってくる。だが、今度はそれを許さない。
そもそも、この異界に満ちている声は、全て、発した者達の声だ。誰かの器に受け入れていいものではないのだ。
 柄に力を込めて、異界から引き抜く。
視界が開け、全身に重たい水がまとわりつく。
「さあ、如月真。そこから出ておいで。一歩踏み出すだけで、君は元に戻るんだ」
 水の向こう側から美術教師の如月一が手を伸ばしていた。彼の手は、フブキの右肩を抱いて、フブキの身体を、如月真の幻影を水柱から引きずりだそうとしている。
 だが、ここで水柱を出るわけにはいかない。水柱が掻き消えても、この異界は消滅しない。
 ウツシミは、フブキ以外の誰かの身体に入りこみ、再び大きく育ってしまうだろう。
 いまフブキに出来ることは一つ。
 身体中に霊感を張り巡らせる。自身の霊感を膂力の強化へ回す。そして、左脚で勢いよく、水蛟の刀身を蹴り上げた。
 パキン。
 甲高い金属音が響き、水柱が揺らいだ。フブキの身体のバランスが崩れ、如月の手が水柱の中を泳いだ。
目の前を水蛟の刀身が天井へ向かって流れていく。フブキは右腕を命いっぱい伸ばし、これを掴んだ。刃が掌に食い込み、痛みが走る。
「香月フブキの名の下に命じる。霊刀水蛟よ。我が名の下に、異形なる存在を斬り祓え」
 右腕を振り下ろし、左腕を振り上げる。両手に持った水蛟が、フブキの眼前でぶつかり、水柱が爆ぜる。
 傍らに立っていた如月一は衝撃により弾かれ、武道館の床面にその身を打ち付けた。フブキを包み込んでいた水柱は四方八方に弾け飛び、天井に満ちた水が、床に向かって落ちてくる。
 振り返ると、見知った顔がフブキの名前を叫んでいた。それが秋山恭輔ではなかったことが、なんだかとても寂しかった。
「香月フブキ、今すぐそこから」
 最後まで言葉を聞く前に、天井の水に押しつぶされ、フブキの視界は水に包まれた。
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HN:
若草八雲
年齢:
37
性別:
非公開
誕生日:
1986/09/15
職業:
××××
趣味:
読書とか創作とか
自己紹介:
色んなところで見かける人もいるかもしれませんがあまり気にせず。
ブログとか作ってみたけれど続くかどうかがわからないので、暇な人だけ見ればいいような。
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