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作成した小説を保管・公開しているブログです。 現在は連作短編が二篇の他,短編小説,エッセイの類を掲載しています。 連作小説の更新ペースは随時。二か月に三回を最低ラインとして目指しています。
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虎の衣を駆る1
 黒猫堂怪奇絵巻1
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黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る1

 怪異の姿を定める主たる要因は二つ考えられる。一つは、宿主に宿る物語であり、一つは物や生き物の似姿である。このうち注意すべきは後者、そのなかでも長い年月のうちに人の念が染み付いた品物、すなわち呪物である。
 呪物は自らの宿す念と適合する人間を求める性質がある。ひとたび呪物と共鳴すれば、たとえ宿主が怪異を呼び込むほどの想いを持たずとも、怪異はその形を得る。呪物の存在が、怪異と関わらずに済んだ宿主を怪異の領域に呑みこんでしまうのだ。故に呪物の扱いには慎重さが求められている。
――西原当麻『怪異論』呪物の章より



 私が見つけたその部屋は、息を吸うのも躊躇うような濃い匂いが立ちこめていた。部屋に入った時の私は、その匂いが何であるか理解ができなかったように思う。ただ、部屋のあちらこちらに描かれている奇妙な模様がその匂いを発しており、匂いと模様のおかげで部屋そのものが他の場所と異なる空間を作り上げていることだけは瞬時にわかった。
 どうしてその部屋を訪れたのか、その経緯について私はあまり覚えていない。この部屋に迷い込む以前、私は見慣れた風景の中にいた。そこは私が守られている場所であり、私にとっての「城」であった。
 ところが今はどうだろうか。気が付けば私は部屋の中心に向かって歩を進めており、おそるおそる振り返ると、部屋の入口がとても遠くになってしまっている。足元には奇妙な模様が広がっており、模様を踏んだ足の裏が粘ついて気持ちが悪い。部屋の入口に立っていたころよりも匂いは強まり、私の思考をかき乱す。まとわりつく匂いから離れたいとの一心で私の足は部屋の奥へと向かっていく。本来ならば、部屋の入口へ駆けもどるべきだったのであろう。けれども、気が付けば自分で何も考える必要などない、守護された日々を過ごしていた私には、守護者のいないその部屋でどのような振る舞いをとるべきかわからなかったのだ。
 幾度か入り口を振り返りながら部屋の中央へと歩き続けるうちに、私は暗闇に光る獰猛な瞳が、じっとこちらを見つめていることに気が付いた。それは十分距離を取った場所で観察を続ける、まるで獲物が罠にかかるのを待つ狩人のような視線だった。
 視線に気が付いた途端、今まで何かに引きずられるように動いていた足が止まり、身体全体から力が抜けていった。床にへたり込んだ私は、粘ついていた奇妙な模様が絵具のような液体によって描かれたものであることに気が付いた。色ははっきりとはわからないがその液体は酷く生臭い。力が抜けた拍子にうっかり大きく息を吸い込んでしまい、私はあまりの匂いに身体をよじって声をあげた。
 ちょうどその時である。私を見つめていた視線の主がゆっくりと、しかし力強い気配を発しながら私の下に近付き始めたのは。獰猛で野性的な純粋なる力の気配。無力な私は目の前に現れたそれにただ声を失うしかなかった。漠然と自らの終わりを意識したが、不思議と拒絶の意思は生まれなかった。部屋の異様な光景に呑まれ、正常な判断力を失っていたのかもしれない。
 それの眼には、私は理性ある人間などではなく、単なる肉塊にしか映っていなかったのであろう。低い唸り声と共に鋭い爪が私の肩に食い込む。その痛みに弱い私は悲鳴を上げた。
 そして、私は見た。獰猛な獣の眼に宿った理性の光を。私を見つめ困惑と後悔の念に包まれたその瞳を。


 屋根裏部屋の窓から差し込む陽の光に促され目を開けると、目覚まし時計が床に転がっていた。その横には時計の電池カバーと電池が転がり、時計の針は止まっている。どうやらあまりに眠くて無理やりに時計を止めたらしい。これでは階下に降りるまで時間がわからない。
 秋山恭輔は身体を起こして窓まで近づいた。外を眺めると夜の気配などどこへ行ったのか明るい空が広がっている。随分と寝坊したらしい。もっとも、寝坊したところで問題は
「あ」
 空から下へと視線をやれば、見慣れた自動車が目に入る。またも休日は奪われるらしい。秋山は、リビングで朝食の準備をしつつ自分が起きるのを待つ新人職員の顔を思い浮かべた。できればこのまま三度寝したい。

 秋山は巻目市内の大学に通う大学生だ。卒業単位は取り終えているため、所属研究室に用がある日と興味のある授業の時だけ大学に顔を出す。大学生後半の今だから許されるこのだらけた時間を楽しみたいのだが、この頃はアルバイト先がそれを許さない。
 屋根裏部屋から下りてリビングに顔を見せると、案の定見覚えのある女性の姿が目に入った。何が楽しいのか、長い髪の毛を左右に揺らしつつ応接用のテーブルに置いた資料を整理している。秋山のアルバイト先、巻目市役所環境管理部第四課変異性災害対策係の職員、夜宮沙耶である。
「おはようございます。秋山君。珈琲でも入れますね、インスタントですけれど」
 こちらに気が付いた夜宮は、ポットのスイッチを入れる。
「なんで夜宮さんが家にいるんですか」
「いつものとおり結界が解除されていたので在宅だと思ったのですが、一階に姿が見えなかったので応接間で待たせてもらいました。今は何処で眠っているのですか」
「なんで夜宮さんに寝る場所まで教えないといけないの。って、そうじゃなくて。前々から思っていたんですけれど、この家は僕の住居であって、許可なしに勝手に入ってくるのはどうかと思うのです」
「この屋敷を秋山君が利用しているのは、あくまで変異性災害対策係の対策の一環です。長期的な経過観測のために滞在してもらっているだけで、屋敷の管理者は私達変異性災害対策係になっているんですから、勝手に入ってくる、という言い方はどうかと思います。それに、私が秋山君の担当になった際に玄関の鍵は頂いています」
 テーブルにコーヒーカップを置くと、夜宮は懐から取り出した鍵の束を取り出して微笑んだ。そういえば初めて挨拶に来た日に主人から鍵を受け取っていたような記憶もある。
「ところで、今日は大学の講義がお休みでしたよね」
「え、ああっと……そうですけれど」
 この女性はどうして授業日程まで細かく把握しているのだろうか。
「それはタイミングがいいですね。仕事です。珈琲を飲んで眼を覚ましてください」

*****

 秋山が行っているアルバイトは、一言で表すなら「化け物退治」だ。変異性災害対策係とは、「怪異」の発見と対処を行う部署である。そんな馬鹿げた部署に人員は当然集まらないので、怪異に対応できる霊感や技術を有する者を外部コンサルタントという形で雇っている。秋山もその一人である。市内に引っ越した際にこの屋敷の怪異対策に付き合ったことがきっかけで仕事を請け負っている。
 このアルバイトは換えの人員が手配しにくいから、もともと一件当たりの報酬が高い。少ない仕事で十分な報酬が手に入るわけで、仕事は必要以上に増える必要などない。寧ろ無駄に増えると余暇が減ってしまう。
 ところが、半年ほど前に夜宮沙耶に担当が代わってからは仕事の頻度が増えている。家に入れないように防護を固め、仕事を全部拒否することを何度か考えたくらいだ。けれども、押し掛けてくる夜宮のおかげで食事の水準が上がっているので、断固拒否するまでの強い態度を示せないところがある。彼女の料理は美味しいのだ。
「このオムレツ美味しい」
「ありがとうございます。甘い方がよかったかなと思ったんですが」
「全然そんなことない。ホテルのオムレツみたいで朝ご飯にはこっちの方がいい。あー、まあ仕事がなければもっといいのだけれど」
「それは無理ですね」
 珈琲の他に、夜宮が作ったというオムレツとほどよい焦げ目のついたトーストを食べながら、秋山は寝ぼけた頭を覚醒させていく。テレビのニュースはすでに午前10時を過ぎている事を伝えており、もはや朝食というよりブランチが正しいのだろうなどという考えが頭の片隅をよぎった。
「はぁ。それで、仕事っていうのは何です」
 そこまで急ぐものでもないのなら概略だけ聞いて後日対応することにしたい。
「あれです」
 夜宮が差したのはテレビの上部に表示されたニュース速報である。『巻目市警察署は引き続き巻目市内にて目撃された虎の捜索を継続中。付近の住民は十分に注意をしてください。目撃した場合には……』と見慣れない内容のニュースが流れていく。
「虎?」
「はい。今回の仕事は虎狩りです」
 怪異と関わる仕事に就いてまだ半年、見慣れぬ怪異に神経をすり減らした結果、夜宮は遂に頭がおかしくなったのだろう。
「なんですか、その顔は。変異性災害対策係から外部コンサルタントである秋山恭輔さんに対する正式な依頼です。現在巻目市内に潜伏している「虎」への対処が今回の仕事です」
「虎って、動物だよね。変異性災害対策係は怪異専門の部署なのだから虎は管轄外でしょう。猟友会と警察に頼むべきではないですか」
 現に警察は捜索に動いているのだから、弱く善良な市民たる秋山としては屋敷に引きこもり、その行く末を見守りたい。
「警察や猟友会の方は既に動いています。それと並行して、今回は私達対策係も虎の対処に動きます。特に虎の発見後の主導権はウチが取る予定で動いています」
「それってつまり、あの虎は怪異が原因で現れたってことですか」
「はい」
 確かに巻目市内には虎を飼えるような施設はないし、飼っているという話も聞かない。かといって、この国に野生の虎がいるなどという話もない。そうだとすれば、巻目市内にいるという虎は何処から来たのだろうか。例えば、虎を輸送している動物園のトラックが事故に遭ったというのはどうだろうか。しかし、そのようなニュースは流れてこない。TVから流れてくるのは虎がいるという情報だけだ。
 ならば、どこか異空間を通って迷い込んでしまったとか。
「そうだとしても、猟師の仕事ですよね。虎は虎です。僕ら祓い師は怪異に対しては優位に立てますが、虎みたいな野生動物と戦う能力はないです。虎に食べられて死ぬのはごめんです。加えて言えば、僕は動物の専門家ではないですから、潜伏場所の予測や捕獲案の提示はできないし、役に立ちません」
「あの虎は野生動物ではないんです。今、市内を騒がせている虎は人間が変じたものです。既に被害者が一名出ていますし、対処のために人手がいるんです」
「嫌だ。乗り気にならない。仮に人が変じたものだとしても虎は虎。頼むべき人を間違えている。荒事は荒事専門の祓い師に頼みましょうよ」
「その点は配慮しています。既に虎狩り自体は別の祓い師に依頼してありますし」
「誰に」
「ええっと、香月フブキさんという方ですね。長正さんがサポートについて虎を捜索しています」
 香月フブキ。名前も業績もよく知っている。彼女に任せるなら大体解決だろう。まあ、虎に化けた人間はとんでもない大けがを負うかもしれないが、何にせよ虎騒ぎは解決する。
「フブキなら一人で解決できる。僕が出かけるころには虎は退治されていると思うけれど」
「いえ。私たちが秋山君に頼みたいのは、捕獲後の対処についてなんです。詳しくは別の方が説明しますので、とりあえず朝食を食べたら移動をお願いします」
「断る」
「断れば、この屋敷の経過観察を別の祓い師の方に依頼することにします。一両日中に退去していただくことになりますがそれでもいいですか」
 断ると言ったら、住居を奪うと返された。あまりの暴挙に秋山が目を丸くしたが、夜宮の態度は変わりそうにない。このまま身支度を急かされ、一時間もしないうちに対策に出かけることになるだろう。
 この仕事が終わったら、やっぱり屋敷の鍵を全て違うものに変えようか。



AM4:30 巻目市内にて大型の獣を観たとの通報。目撃者は虎ではないかと証言
AM4:35 警察官二名が通報現場に到着したものの付近にそれらしい姿なし。念のため周囲を巡回してみるが痕跡はなし。
AM7:00 同日4:30に通報があった場所から南方1キロの地点にて大型の獣の目撃情報あり。至急警察官数名が現地に向かったところ、体長約2メートル程度の虎を確認。虎は巻目東駅方面へと逃走。警察車両にて追跡したが、3キロほどさきで忽然と(?)消失
AM7:30 虎を見失った場所を中心に警戒区域に設定。付近の住民に警告をすると共に猟友会と連携し虎の捜索を開始するも、虎の姿は確認できず。
AM10:20 警戒区域外の商店街にて虎の姿を目撃したとの情報あり

*巻目市内、四辻商店街入り口
「こちら高橋。通報のあった商店街に到着しましたが、それらしい姿は見えません」
 いつもなら既に朝を迎え活気にあふれているはずの商店街は、一連の虎騒ぎのおかげで真夜中のように静まり返っている。朝方に突然目撃された謎の虎は、姿を消してからやく3時間後、突如警戒区域とは全く異なるこの商店街で目撃された。しかし……
「本当にいるんですかね、虎」
 高橋は助手席に座る先輩警官の顔を伺う。先輩も高橋の問いに眉をひそめて首を傾げる。
「どうだろうな……居たら大問題なのは確かだな。虎が街中をうろついているなんて、危険にもほどがあるだろう」
「でも、3時間近くも捜索したのに見つからなかったんですよ。2メートル以上ある動物が街中で一切目撃されずに、突然こんなところで見つかるなんて」
「そうはいっても通報があったんだ。いなければひとまず安心だ。これも仕事だよ」
 先輩が、高橋に降りるぞと合図をする。高橋は仕方なく車両を止めてドアを開く。
――
「先輩?」
 ドアを開いた瞬間、かすかに聞こえた唸り声に高橋は思わずドアを閉めた。慌てて先輩の方を見ると、彼もまたドアを閉めてこちらを見つめていた。いや、先輩の目は高橋を見ていたのではなく、高橋の右後方、路地裏へと続く曲がり角の方を見ている。
 おそるおそる振り返ってみると、路地裏からのっそりと黄色と黒の模様が入った生き物が姿を現した。それは獲物を探すように左右に首を振り、通りの真ん中へ向かってくる。
「先輩!あれって」
「む、むせんだ。応援を呼べ、早く」
「は、はい」
 慌てて無線機をとって、虎を発見したことを伝えようとした。
――ゴンッ
「ひいい」
 急に車体が揺れて、思わず高橋は悲鳴を上げた。フロントガラスの向こうにいる虎はまだ通りの真ん中をうろついているのに、いったい何が車に?
「あー。本当にまるっと虎だね、ありゃ」
 車の天井の方で女性の声が聞こえたかと思うと、運転席の横に人影が降り立った。初めに目に入ったのは紺色のブレザーとスカート――近隣の私立高校の制服だっただろうか。そして釣竿でも入っているかのような、肩掛けの細長いバッグ。高橋達の乗っている車両の天井から下りてきたに違いないその女子高生は、運転席を覗きこみ、軽く窓をノックした。
「ちょっといいですか。窓開けてもらえます?」
「君、こんなところで何をしているんだ。あそこにいる虎が見えているだろう」
「見えてますよ。あれは誰が見ても虎でしょ。あ、向こうもこっちに気付いたみたい」
 彼女の指さす方向では、虎がこちらを見てじっと動きを止めている。
「君は早く逃げた方が」
「大丈夫。あっちが逃げるから。追いかけますよ?」
 彼女の読み通り、虎は向きを変えて路地裏へと駆け出す。彼女はボンネットをトンと一回叩いて虎の後を追いかけていく。高橋は、突然のことに呆気に取られていたが、慌てて彼女と虎の後を追いハンドルを切った。
 高橋の記憶が正しければ、あの路地裏は袋小路だ。入口を塞げば虎は逃げ場を失うだろう。しかし、女性一人で虎を追い詰めることは不可能に近いはずだ。そう考えて、なんとかしてあの女子高生を助けなければと思い勢いよく袋小路に入った高橋は目の前の光景に再び混乱することになった。

 袋小路に居るのは、ヘッドフォンに制服姿の女子高生ただ一人。肩にかけていたバッグを左手に持って周囲を何度も見回している。袋小路に逃げたはずの虎が何処にもいない。まるでさっきまでの光景が嘘であったかのように消えてしまったのである。三方を囲む三階建ての雑居ビルを飛び越えたとは思い難いし、ドアや窓が破られた気配もない。
「どうなっているんだ。虎が消えた。先輩、先輩も虎、みましたよね」
 慌てて隣の先輩の顔を見ると、先ほどまでよりも険しい表情を浮かべており、高橋はぎょっとした。先輩は高橋の顔を見て頷く。
「見たよ。錯覚じゃない、確かに虎がいた。だがここには虎がいなくて、あの女がいる。こいつはどうやら外れくじだな」
 高橋には先輩警官が何を言っているかがわからなかった。返す言葉も見つからずただ先輩の顔を見つめ返すだけの高橋の下に、件の女子高生が戻ってくる。彼女は初めと同じように運転席の窓ガラスをたたき、開けるように催促をした。
 窓を開けると、どこから取り出したのか携帯電話を車内に突っ込んでくる。顔はこちらではなく、袋小路に向けたままであるので、彼女の意図が読むに読めない。そうして戸惑っていると先輩が手を伸ばして携帯を手に取ってしまった。
「細かいことはそちらの指示に従ってください。まもなく応援が来るはずなんで」
「ちょっと、君。何言ってるんだ。君こそこんなところにいたら危ない。虎が何処に隠れているかわからないんだぞ」
 自分が口に出す言葉に違和感がある。この路地にはどこにも虎が隠れられるような死角などないのだから。
「ひょっとして霊感ある人?」
「君ね、状況わかってるの? 早く、危ないから」
「あーはー? ああ、そういうこと。今の状況だと危なくはないと思うけど、寧ろお兄さん達が邪魔だから早いところ指示に従ってほしいの。あの変な虎に怯え続けるのは嫌でしょ?」
 女子高生の返答が噛み合わないうえに、警察官を馬鹿にしているような発言に高橋はついカッとなり声をあげそうになった。しかし、先輩警官に肩を掴まれ発言を遮られてしまう。
「状況を理解していない若いのが失礼をした。指示通りサポートに回るので、早いところ捕まえてくれ」
「話が早いね。お兄さんみたいな人が多いとこっちも楽」
 先輩は彼女の言葉を無視し、高橋に車をバックさせるように指示を出す。指示に従い引き返すも高橋には今のやり取りが釈然としない。やはり先の女子高生も乗せてくるべきだったかと袋小路の方を見ると、彼女の姿は何処かに消え失せていた。
「慌てるな。あの女も虎も何処かに消えたわけじゃない。その辺のビルにでも入り込んだんだろう」
「どういうことですか」
 少なくても壁面に虎が侵入できるような場所はなかったはずだ。いや、彼女だってこの短時間でそんなことができるのだろうか
「市役所の変異性災害対策係って聞いたことはないか? ウチみたいに常識的な発想じゃ解決できない事件専門の処理班だ。彼女はその中でも荒事専門で有名な人間でな、彼女が捜査協力に来ると大けがするって一時期は有名だったんだ」
 気になるなら署に戻って資料を探してみるといい。確か、名前は香月フブキとかいったはずだ。とにもかくにも、彼女が来たなら役所の指示に従っていたほうが身のためなんだよ。先輩は不満げにそう言って目を閉じた。

*******

 ふんふん、ふんふふん。
 街中にある進入禁止の空きビルを探索できるのはこの仕事の特典の一つだと思う。空きビルの中は人がいないし、思う存分「力」を行使しても咎められることがない。そう思うと、自然と心は軽くなるし、鼻歌を歌いたくなったりもする。
――香月さん? 聞こえていますか?
「あーあー。うん、聞こえてる。人がせっかく雰囲気に浸りながら準備運動してるのに空気読んでよ、長正」
――申し訳ありません。ビルの中には人が入らないように配慮しました。そのビルからでるためには正面の入口からでるか、香月さんの後ろにある裏口を通る以外の出口はありません。正面入り口の方は先ほどの警察官の方が見張っています。
「そ。じゃあ、気を付けるべきは窓からの逃走のみね」
 裏口は既に施錠済みだ。まあ、虎が突撃してきては施錠なんて意味がないかもしれないけれど。
――目標がそのビルに入ったことは間違いないのですか? こちらでは反応を感知できないのですが。
「間違いないよ。袋小路で姿を消したけど、確かに匂いがする。衣を脱いだんじゃないかな。虎の姿さえ消せば事情を知らない人には見つけられないからね」
 原則として怪異は霊感のある人間にしか感知できない。裏を返せば霊感のない人間が感知できるのは怪異が起こした現象のみということだ。だから、人間を虎に変えてしまう呪いの毛皮で何処かの誰かが虎の姿と人間の姿を繰り返していても、霊感のない人間には「虎」が突然現れて、不意に何処かへ消えてしまうようにしか感じられない。きっと、虎の持ち主はそうやって姿を消して逃げ回ってきたに違いない。
 私からしてみればとても安易な発想だと思う。多少霊感が強い人間なら、衣を脱いで人間に戻ったところで、その気配を感じ取れるのだから。あ、でも、長正は気配を感じ取れていないから、よっぽど霊感が強くないとわからないのかな。
――わかりました、細かい位置の捜索は香月さんに任せます。
「えー。それサポートの意味ないじゃん。まあいいや、対象を見つけたら怪異の発生を確認次第対処すればいいんだよね。それじゃさっそく探しに行きますか」
 一通り柔軟運動を終え、私は肩に担いでいたバッグから愛刀を取り出す。刀の剣先に意識を集中させて一振り。剣先を通して建物内に流れる霊気を受け止める。誰もいないはずのビルに一本だけうっすらと霊気の筋がある。怪異特有の陰気がまとわりついているが、その源は怯えきった人間の感情だ。
「盗んで使っておきながら、その力に怯えるか。虎の器じゃないねぇ全く」
 しっかりと捕まえた霊気の筋を追って一気に駆けだす。見つけ出すまで3分とかからないに違いない。私から、この香月フブキから逃れられると思ったら大間違いだ。


 虎。哺乳綱ネコ目(食肉目)ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類。体長は2メートルから3メートル程度。木には登るし、茂みに隠れて獲物を狙う。餌となる動物の中には人間も含まれうるらしく、実際に人間が襲われた事例も過去にはあるらしい。
「街中にこんなのが現れたら大騒ぎになると思ったけど、なんか普通だ」
 車から眺める市内の様子は、普段とほとんど変わらない。街中に虎が潜伏しているなんて話を聞いたら、町中そろって引きこもると思っていた。しかし、どうやらそういうわけでもないらしい。
「みなさん色々と予定がありますし、とても近くに虎がいると言われない限り、生活リズムが狂うなんてことはないと思います」
「そういうものなの」
「そういうものです。秋山君、ひょっとしてまだ眠いんですか」
「とっても。もう帰らなくていいからここで三度寝したいくらい」
「ダメですよ。左にみえるのが目的地、虎の被害者、宿見新造さんのお宅です」
 眠い目をこすりながら横を向くと、塀に囲まれた住宅が目に入る。車は門を抜けて塀の中へと進んでいく。秋山が住んでいる屋敷に比べれば小さいが、固い質感の壁面や、玄関前の装飾などをみると、遥かに高級な建物なのだろう。
 館の駐車場には三台ほどの警察車両が停車、その他にも数台、黒塗りの高級そうな車が停車している。
「夜宮さん、ひょっとしてこの家ってその、危ない筋じゃ」
 黒塗りの車に、塀に囲まれた立派な家、真っ先に思い浮かぶのはあまりお目にかかりたくない人たちの姿だ。
「そういった情報は受けていません。昔は呪物の買い受けを生業にしていたとか。あちらに今回の件の依頼者がいます。まずは彼に詳しい話を聞きましょう」
 夜宮と共に玄関横に建てられた架設テントに入ると、老人がパイプ椅子に座ってお茶を飲んでいた。両目を覆い隠す紅い包帯と、首にぶら下げた眼球を模したペンダントが老人の存在を際立たせる。あの趣味の悪い組み合わせには見覚えがあった。
「到着が遅れました、変異性災害対策係の夜宮です。ご指名の通り秋山恭輔さんをお連れしました」
「おお、黒猫堂の倅や。久しぶりだな。中学生の頃にウチに来て以来だったかな」
「最後にあったのは高校生くらいの時だったと思います。お久しぶりです、壱眼(いちめ)老」
「こっちの学校に来ているとは聞いていたがねえ。実家には顔を出しているのか」
「今は実家の事はいいでしょう。僕は仕事でここまで来たのですから」
 秋山の実家は黒猫堂と呼ばれる祓い屋を営んでいる。壱眼老は黒猫堂と古くから付き合いのある呪物専門の骨董品店『壱眼古物』の店主である。実家暮らしのころは、客として訪れる彼と出会うことも多かった。巻目市に越してからは、実家の事を尋ねられるのが厭で、店を訪ねていない。それが、こんな形で仕事を一緒にするとは思いもよらなかった。
「そうだったね。それで、儂が渡した資料には目を通したのか」
「読みましたよ。はっきり言ってしまえば信じられません。この写真に映った虎の毛皮を纏うと人間が虎になるですって? 本物の毛皮を着ぐるみのように身につけて虎の気分になる奇特な趣味がある可能性は否定しませんけれど、毛皮を着て本物の虎になるなんて。実際に変化の瞬間を押さえたならわかりますが、突拍子がない話ですね」
「なるほど、ではお前さんは儂の鑑定眼を疑うとな」
 壱眼は目を覆う包帯をずらし、隠れていた深紫の瞳をこちらに向けた。背後で夜宮が息をのんだのがわかる。壱眼の瞳を初めて見た人なら誰だってそういう反応をする。
「そういうつもりではないですよ。ただ、類例を聞いたことがないし突然言われても見たことがない以上、納得がいかない」
「おや、どうやら黒猫堂ではそういった資料を見たことがなかったようじゃの」
「どういう意味ですか」
「言葉どおりの意味さ。まあ、類例に知りたいのであればそれもこれから話してやろう。それでいいのだろう?」
「わかりました。でも、仮にその毛皮が、老の言うとおりの代物だとして、変化後は要するに虎なのでしょう? なら猟師にでも撃ってもらって、毛皮が危ないというのであればそれを処理すれば済む」
「ふむ。お前さんの言うとおりにすれば、今騒ぎになっている虎は退治できるかもしれんの。もっとも中に入った人間がもう一人死ぬことになるがね」
「中の人間が死なないように、祓い師が退治に出ています。香月フブキの実力は僕もよく知っています。彼女一人がいれば虎退治は事足りると思うのですが、老は僕に何を頼むつもりだったんですか」
「そこの娘さんに伝えておいたはずだよ。儂が協力してほしいのは虎の後処理についてさ」

*******

――力をあげる。貴方のなかのその苛立ちを、これで解消すればいい。
 確かにそう言った。顔も、声も思い出せない。思いだそうとすれば、頭の芯が痺れたようになって視界が歪む。あれは、いつ、どこのことだ。俺はいったい何と会話して、何を承諾したというのだろうか。
 人気のないはずの建物内で、何かが激しく廊下や壁を蹴る音が聞こえてくる。それは、確実にこちらに近づいて来ていた。そんな馬鹿な。俺はうまくやったはずだ。何で追ってくるのだ。さっきからずっとこの方法で見つからずにやってきたはずなのに。

「見つけた! そこを動くな臆病者」

 近くの空き部屋に逃げ込もうとしたがワンテンポ遅れた。それは、突然廊下に現れ、天井を一蹴りし、宙返りをした上で床に降り立った。手に持った刀の切っ先は廊下の端にいる俺に向かって突きつけられている。その距離、三〇メートルほど。すぐに空き部屋に入って扉に鍵をかけ、別の扉から出れば逃げ切れるはずだ。しかし、目の前の女の気配に足がすくむ。
「『虎』になったのはキミでしょう? 右手のバッグの中に毛皮が入っているのかな」
 『虎』になった。そんなつもりはない。俺は、別にそんなことがしたかったわけではないのだ。
「応戦する気もなければ、素直に投降する気もないの。全く、怯えを体中から垂れ流しているだけはあるね。反応ないならこっちから行くよ」
 女の気配が鋭くなる。姿勢を低くして、こちらに向かって強く踏みこむ。廊下に響く大きな音と共に女の身体が膨れ上がったかのようになり、俺は思わず声をあげて隣のドアを開けた。空き部屋に逃げ込んだと同時にドアが廊下の奥へと向かって吹き飛んでいく。
 あまりの光景に腰を抜かし、へたり込んだ俺の前では先ほどの女が刀を片手に吹き飛んだドアの方向を眺め何事かを呟いている。
 死ぬ。何が何だかわからないうちに、今ここで俺は死ぬ。あの女に殺されるに違いない。
――チカラガホシイダロウ イキノコリタイダロウ
 手に抱えたバッグの中からは、あの声が響いてくる。とっさに手を入れると、すぐにあれに手が触れる。あれはまるで待っていたかのように俺の体に纏わりつきはじめる。
 怖い。いいのか、この声に従って、俺はあんな風になりたかったのか。女が独り言を終えて、俺の顔を見る。再び刀のきっさきを俺の顔に向ける。さっきよりも遥かに近い。彼女が数歩近付けば、俺の目の前に刀が来ることだろう。死にたくない。死にたくない
――ソウダ イキノコレ チカラヲクレテヤロウ
 バッグの中の声が頭の中に満ち溢れる。チカラ、チカラ、チカラチカラチカラチカラ。
 右手から右腕に、肩を超えて身体全身へ、あれの感触が一気に広がっていく。俺は、俺はこんなところで死にたくない。その一心であれの言葉に全身をゆだねた。その光景に女が大きく目を見開いた。
 そうだ。畏れることはない。所詮人間なのだから。俺は、俺はこんな女に殺されるわけがない。

―――――――
・次回 黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る2
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プロフィール
HN:
若草八雲
年齢:
37
性別:
非公開
誕生日:
1986/09/15
職業:
××××
趣味:
読書とか創作とか
自己紹介:
色んなところで見かける人もいるかもしれませんがあまり気にせず。
ブログとか作ってみたけれど続くかどうかがわからないので、暇な人だけ見ればいいような。
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