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作成した小説を保管・公開しているブログです。 現在は連作短編が二篇の他,短編小説,エッセイの類を掲載しています。 連作小説の更新ペースは随時。二か月に三回を最低ラインとして目指しています。
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建築物が好きと言う話。
 偶々、機会があって自分の好きなものってなにかなあって色々考える羽目になった。民俗学とか妖怪の話とか、怪談、小説。この辺りが好きなのと同時に、建物も好きだなあって思う。残念なことに、好きなものが一概に仕事に結びつかないものばかりなのだけれど、それはともあれ、客観的に見て、「建築」というのは他の好きなものと距離感があるような気がする。
 建築が好き。という話自体は、ここ数年、時折誰かに話していたようにも思うのだけれど、そもそもにして、私は建築に関する学問に触れるような立場になかったと思う。いったい、なにがきっかけで建築が好きになったんだろう。

 ふとそんなことを思ったので、適当なテキストを作ってみた。
 本当は、本文の他にも、何人かの建築家さんの書籍を読んで、それに触発されてより建築に興味を持つようになったのだけれども、そもそものきっかけや、建築を見る時のドキドキはこういうところにあるのだろうという備忘録なので、その辺りは割愛。
 それにしても、こういう文章っていざ書こうと思うと難しい。小説の方が気が楽である。評論やらエッセイ書いてる人って、きっと小説と異なる頭の使い方してるんだろうなあ。

以下本文
――――――

建築物が好きと言う話。

1 私が初めて一人で東京をぶらつく機会に恵まれたのは、確か大学受験の時だった。東京という街をよく知らなかった私は、とにかく旅行会社に取ってもらったホテルに行きつくかが不安であったし、何よりも道行く人間の多さに酔ってしまい具合が悪くなった記憶がある。
 東京を訪れるにあたり、現地にいる友人に案内を頼んだところ、新宿駅のどこかで待ち合わせることとなったのだが、新宿駅というのは、当時の私には想像もつかない形状をしており、目的地にどう行けばいいのかわからかった。人ごみで酔いそうになりながら、割と長時間にわたって、駅構内を右往左往していたと思う。
 その後なんとか友人と合流し、最低限の案内をしてもらったものの、その日は新宿駅の全体像はよくわからないままだった。全体像をぼんやりと把握したのは翌日以降何度か新宿駅に出入りした後だったと思う。新宿駅の構内や周辺を独りでぶらぶら歩き回ってみて初めて、新宿駅は東西(?)で高さが異なり、通る改札口によって駅の光景が変わるのだということに気が付いた。
 気がついてみるとその作りがなんだか面白くて、日程に余裕を持って東京に出かけていたのもあってか、私は何度も新宿駅を行ったり来たりしていたような覚えがある。そのなかでも、最も印象に残っているのは、新宿駅の段差と線路が歌舞伎町側と都庁側を区分けしているように見えたことだ。
 新宿駅の東側、歌舞伎町に続くエリアは平日であるか休日であるかを問わずに絶えず人でごったがえしており、道に面した商店も全体的に混雑していたのに、一転、都庁側に出てしまうと、目の前に広がるのは綺麗に整地されたビル群と人気のない道路だった。線路を一つ挟んだだけなのに、街の機能は全く異なるのだろう。東京のことなどよく知らない私は、なんとなくそうした印象を持ち、新宿駅が都庁とその向こう側を隔てる砦のように感じた。

 改めて考えると、私が、建築に興味をもったきっかけは、ここにあるのかもしれない。
 元々、自分の進路や自分の興味関心というものを真剣に考えることのない性質で、大学進学にあたっては、漠然と身近にあった機械工学の研究をするという進路を掲げ、あげく途中で工学に興味のないことにきがついて放り投げてしまった口である。気が付けば、文系に進路をシフトして現在に至っており、建築との接点なんて何処にも見当たらない。それでも、現在の私はふと立ち寄った本屋で建築家の本を探してみることがあるし、建築の基礎知識を少しずつ習得していこうなどと思う程度には建築が好きらしい。
 もっとも、建築が好きと言っても、構造計算等、具体的な建築技術が好きというよりは、建築物が作りだす“空間”が、もっといえば本来は仕切られることのなかった空間を切り分ける建築の機能が好きなのであり、そうした視点をもったきっかけは、やはり新宿駅を訪れた体験にあるのだと思う。

2 建築物とは不思議なもので、更地に建物が立つと、地続きに繋がっていたはずの空間が壁やら窓やらで分割され、個別化されてしまう。建築物によって内と外が遮断されると、その空間は、更地と異なり、外からの視線に触れることなく振る舞える空間へと変化する。私たちは、建築物の中で、外からは見られないその空間を支配し、個人の住みやすいようにその中身を整えていく。更地だったころにはありえなかったであろう無防備な姿を、建築物の中では気兼ねなく晒してしまうことすらある。空間を切り分けるということは、それだけ私たちの生活を変容させる行為なのだと思う。
 例えば、アパートのような集合住宅を想像してみる。一区画の中に数階建の建物が立ち、その中にいくつも切り分けられた部屋が設置されている。部屋ごとの主はすべて異なり、一人一人が部屋の中で個々の暮らしを営んでいる(もちろん、壁の厚さやら共有スペースの設備、室内の設備等々によって、隣人の生活が部屋に流れ込んでしまうことはあるが、基本的な構造を見る限り、個々の部屋が独立した生活を営むことを目的としていると言っても問題はないだろう)。
 見慣れた建物であるから、これ自体、不思議な点はないようにも思うけれど、空間を切り分けるという機能に着目すると、集合住宅は不思議な物体に見えてくる。距離にして何センチも離れていない隣室では、自分とはまったく異なる生活が営まれている。それも、自分の生活に何ら干渉せず、こちらの生活にも何ら干渉されずにである。その辺の空き地ではなかなかこうはいかない。相手の生活も自分の生活も、互いに見えてしまうし、ややもすれば、干渉しあってしまう。一つの空き地で複数人が生活を続けるとすれば、次第にその境界が曖昧になり、いずれ一つの共同体のようになってしまうだろうと思う。
 狭い空間で、多くの人間が独立した暮らしを営めているのは、建築物が物理的な壁によって空間を切り分けたからに違いない。例えば、集合住宅の内の何処か一つの部屋について、隣接する部屋との間の壁を一部破壊し、ドアを設置する、あるいは壁全てを取り払ってしまったとしたら、隣接した部屋との関係は一変するだろう。隣り合った部屋の住人同士の生活は混線し、一体化しかねない。もしくは、耐えきれずどちらかあるいは双方が部屋を出ていくか。
 建築物による人の生活の変化というものは、住宅に限ったことではない。学校や公民館、商業ビル。街に立っている多くの建築物は、外壁により外を遮断し、内装の作りによって空間を切り分け、また空間を演出する。建築物が切り分けた空間の広さに、当該空間を利用する人の生活は拘束され、これに合わせて変化していく。

 私は、建築物は、利用者の動線、場合によっては生活の仕方を作る大枠のような役割を果たすものなのだろうと思っている。建築時には、建物が作りだす生活の在り方を想像することが大切になってくるだろうし、建設後に至っては利用者が建築物に合わせてどのような生活を実践していくかが重要になっていく。建築は、物理的に人の生活をデザインする行為なのかもしれない。
 人の生活をデザインする行為だと思って見ると、街中で行われている建築工事の光景がとても面白く見えてくる。地盤を整え、建築材を組み合わせて空間を切り取っていくその行為は、今とは異なる生活空間を作り出し、完成後に生きる誰かの生活を作りだす行為なのだと思うと、通りすがりに過ぎないのに長々と現場を眺めてしまう。
 つまるところ、私は建築が生活を作りだすその過程を見るのが好きなんだろう。
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comments
[無題]
失礼します。Twitterからまよいこみました。
興味深く拝読しました。
導線を作る建物の役割って面白いですね。
** 2013/01/25 18:38 (NONAME)
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1986/09/15
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色んなところで見かける人もいるかもしれませんがあまり気にせず。
ブログとか作ってみたけれど続くかどうかがわからないので、暇な人だけ見ればいいような。
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