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作成した小説を保管・公開しているブログです。 現在は連作短編が二篇の他,短編小説,エッセイの類を掲載しています。 連作小説の更新ペースは随時。二か月に三回を最低ラインとして目指しています。
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虎の衣を駆る4
<前回まで>
黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る1
黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る2
黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る3

―――――――
虎の衣を駆る4



 暗闇の中で獣は私に語りかける。
 獣の姿であっても、このように一時は人の理性が戻ってくる。しかし、その本質は獣に変わらないと。元より我は獣であり、ふとしたきっかけで人間に変じたに過ぎなかった。人の姿に変じて、私や他の者たちの前に現れていても、その心は獣のままであり、早く、一刻も早く元の姿に戻りたいと疼いてならないのだと。
 人の姿になっていると、このような奇妙な扮装をしている自分を怪しんでしまう。人の姿を続けていると、己の獣としての本分を忘れてしまう。早く獣に戻らなければならないと。

 私が初めて出会ったころに比べ、獣はより深い暗闇へと姿を隠し、その声も人と獣の声が混ざりあい聞き取りづらくなっていた。獣は人の姿を捨て、より深い、より本質に近い姿へと変容を続けていたのだと思う。
 やがて、私は気がついた。獣はまもなく人の姿を捨てるのだと。自分の本質である獣の性に従い、暗闇の中へと駆けていくのだと。
 私はそのような獣のことがたまらなく愛おしく、そして憎らしかった。

*******

「勢いで依頼を受けるのは構わないけれど、これって結局ノープランってことなんじゃないの秋山」
 宿見邸の玄関前に佇んだ香月フブキは、後ろの秋山恭輔を睨みつけた。水蛟を入れたバッグを右肩にかけているその姿は昼間とほぼ変わらない。変化があるとすれば左腕が、二の腕から掌にかけて梵字の印された包帯で覆われていることだろう。彼女は、左腕の感触を確かめるかのように何度も振り回している。
 比良坂民俗学研究所にて打ち明けられた壱眼の話を聞き、秋山が出した結論は、今夜中に宿見邸内にいるという獣憑きの対策を行うというものだった。その場にいた鷲家口ちせ、部屋の外で立ち聞きしていた香月フブキ、依頼者である壱眼、そして私――夜宮沙耶の四人を引き連れ、秋山は再び宿見邸を訪れた。
「ノープランというわけじゃない。相手が素直に認めてくれればそれで解決だし、そうじゃなければ『虎の衣』を使って過剰適合者を探すのが早いと言っているだけだ」
 それは誰が聞いても無策で飛びだしているのと変わらないと思うし、香月が不満を漏らすのも納得がいく。けれども、ここまできていまさら引き下がるわけにもいかないだろう。私は脇に抱えた袋におそるおそる視線を向けた。この袋の中には例の「虎の衣」が入っている。利用しなければ害がないとわかっていてもやはり秋葉直人に絡みつく虎の衣の映像は忘れることができなかった。
「だから、それは相手に武器を与えるってことでしょ、結局出たとこ勝負じゃない」
「まあまあ、フブキちゃん。だから、秋山クンも私やフブキちゃんの事を頼っているわけじゃない。助け合いの心は大切よ?」
 ちせが香月の頭をなでることでとりあえず場は収まったが、香月はいまだ納得がいかないのか頬を膨らませている。
「あの、ところでちせさんの腕のそれって?」
 香月の頭を撫でているちせの手には巨大な金属製の籠手のようなものが嵌められている。そもそもにして、ちせは呪物鑑定を生業とする職員ではなかったのだろうか。
「ああ、これ? 武器よ武器。ちょっと“力”をこめてやれば、怪異も人間もひとっ飛びってね」
 ちせはとびきりの笑顔でファイティングポーズを取る。白衣にボブカットの女性ボクサーというのは珍妙な風景で思わず呆けてしまいそうになったが、「ひとっ飛び」とはあまり穏やかな言葉ではない。そのままシャドウボクシングを始めるちせの横で香月が小さくため息をつく。
「ちせは呪物鑑定の腕を買われて研究所にいるけれど、元々はうちの係の戦闘要員なの。秋山なんかよりよっぽど強いし、戦闘狂なんだから」
「戦闘狂って言い方はないじゃない。ぶっ飛ばすぞ」
「なっ、やる気?」
 このままでは仕事に入る前に二人が乱闘を始めそうな始末である。
「二人とも、いい加減にしてください。そろそろ入りますよ」
 呆れたように首をふりながら、二人の間を通り抜け、秋山が宿見邸の玄関前に立つ。
「さて、獣退治、と行きますか」
 彼の指が玄関のチャイムを鳴らした。

*******
 
 あ、の、どちらさ、まですか?
 あ、ええ、変異性災害対策係……ああ、昼間の。その、こんな時間までどういった?
 
 はい、はい。はあ、はい。それは応接間に皆さんを呼べばいいのでしょうか。え? 私? ええっと………………あ、はい。大丈夫です。私、わたし、ワタシ……はい。私も同席させてもらいます。
 そ、そうで、すね。では、みなさんひとまずこちらへ……どちらへ?
 あの、後ろの方は? もう一人いらっしゃるのですか。はあ。それでしたら玄関のカギは開けておきますので……応接間の位置ですか? そこの通路の突き当たりになります。他の方は先に案内させていただきますので、どうぞ自由に。あ、他の部屋には決して入らないようにお願いします。色々と私物もあります故

 最後に? 私の名前? 私……わたしは、えーっと……み、み、よ……そう。宿見美代と申します。どうかされました?

*******

「沙耶ちゃんだけ外に出しちゃってよかったのかな」
「的確な判断だよ。ちせだってわかるでしょ、この家、ちょっとおかしいよ。何があるか分からない。それに美代だっけ? 彼女だって何か様子が変だった。言動が途切れ気味だったし、なんで自分の家の扉を上手く開けられないの」
「少しくらい静かにしてください。迷惑ですよ」
 横に座るちせと香月を注意するが、秋山もここまで案内をしてくれた宿見美代に不審なものを感じていた。それだけではない。玄関を通った瞬間から、邸内の雰囲気が昼間と異なっている。邸内にうっすらとだが陰気が満ちているのだ。
 応接間にて美代が家の者を呼んでくると席を離れて数分。宿見邸の中は秋山達が動く音を除いて一切の音がしない。邸内に漂う陰気は、呪物保管庫から漏れ出している呪物の念なのか、邸内に潜む怪異によるものなのか。物陰に潜んでいる何かがこちらの動きをじっと見つめているような、建物内のあらゆる場所から視線が集まっているような圧迫感があり、息が詰まる。
 読み違えたか。秋山の脳裏に最悪の展開がよぎる。何ら武装をしていない夜宮を一人で車に戻したのは失敗だっただろうか。車には祓い師ではない彼女でも扱える呪物をいくつか積んでいる。彼女と壱眼の身を守るくらいのことはできるはずだ。それに、肝心の「虎の衣」は秋山の足元にある。攻勢にでようともこれがなければ虎に変異することはできないはずだ。
「ねえ、秋山。本当にこの家には虎の衣の適合者、“獣憑き”がいるんだよね」
 秋山の不安を感じとったのか、隣に座る香月が声をかけた。
「状況と老の話からすれば」
「私も“何か”がいるのは同意するよ。でも本当に『虎の衣』が原因なの?」
「それはどういう意味?」
「さっきから気になってるんだけど、この家、秋葉直人の時と同じ匂いがするんだ」
 秋葉直人の時と同じ? 「虎の衣」は何の効果も発しないままここにあるのに? 香月は五感で感じとるのと同じように、匂いや音でも霊気を感知する。彼女が同じ匂いがするというのであれば、それは秋葉の時と同様の変異性災害が起きつつある、あるいは既に起きている可能性が高い。
 やはり秋山と壱眼は読み違えたのだ。この家に潜んでいるのは虎に姿を変える単なる“獣憑き”ではない。
 とにかく行動に出なければと、秋山が席を立ったその時だった。

「お待たせしました。変異性災害対策室の皆さま」

 応接間の扉が開き、美代に連れられて、小柄な女性が姿を見せる。黒のドレスをまとったその女性は、秋山達に深く一礼をした。
「次期当主宿見博美の代行を務めさせていただいております、宿見香代と申します。今宵はどのようなご用件で参られたのでしょうか」
 そう述べて、秋山達を見る宿見香代の瞳は薄い紫色に輝いていた。応接間は明るいはずなのに、彼女の輪郭だけが薄闇でぼやけている。薄闇は彼女の周りで形を変えながら、周辺の明かりを取り込もうともがいている。
 彼女を前に秋山の霊感は告げていた。宿見家を包んでいる陰気の中心が宿見香代であること、そして変異性災害が既に始まっていることを。

*******

 車に戻って装備を整えた上で、出来るだけ早くこの場を離れてください。
 秋山はそう囁いて私を外へと押しだした。彼がそのように言った理由は想像がついている。宿見邸の内部には、明らかに陰気が漂っていたからだ。変異性災害発生の可能性がある。その危険から非戦闘員である私を引き離し、同時に車で待つ壱眼の安全を確保しようとしたのだろう。
 私は秋山の指示通り、宿見邸の敷地横に止めた車へと戻っていた。
 門の前で一度振り返るが、宿見邸には変わった様子は見えない。どうやら外にまで陰気が漏れているわけではないらしい。
「でも、どうしてだろう」
 秋山の推測では、宿見邸内に潜んでいるのは虎の怪異を宿した者のはずだ。外部への干渉の鍵となる呪物、「虎の衣」は私たち変異性災害対策係の手にある。未だ秋山が所持しているはずなのだ。
 それなのに、邸内に陰気が漂っているのは何故か。陰気や陽気と呼ばれる霊気は日常的に人間や呪物が発している。だから、必ずしも変異性災害たる怪異の出現を示すものではない。今回も夜になって偶然陰気が漂っているに過ぎないとも考えられる。例えば呪物保管庫のドアが開いていたなどというアクシデントでもあれば、玄関に陰気が漂っていてもおかしくはない。

「しかし、そうだとすると随分変わったやつだなその怪異憑きは」
 出発前に岸が呟いた言葉が脳裏によみがえった。
「だってそうだろう? いくら自分の罪を覆い隠そうと思ったからと言って、自分を怪異に変える力の素を他人に譲渡するか? 虎になれば並みの人間なんて軽々と狩れるのに、何を怯える必要があるかって開き直ったりしないもんかね。少なくても、俺ならこれを機に虎としての人生を生きてやろうとか思いそうな気がするんだが」
 その発想だと、岸さんは呪物に呑まれるので触らない方が安全ですね。その時、私は岸の言葉を真面目に受け止めなかった。けれども、今になって急に岸の言葉にひっかかりを覚えたのだ。
 何故、宿見家に潜む怪異憑きは虎の衣を他者へと着せたのか。仮に罪を隠す以外に着せなければならない理由があるのだとしたら。
「まさか、ね」
 頭に浮かんだ嫌な考えを打ち消し、私は駐車していた車の後部座席を小さくノックした。窓がスライドし、中から壱眼が顔をのぞかせる。
「どうしたのかね夜宮さん」
「宿見邸内に変異性災害が発生している可能性があります。安全に配慮して壱眼さんは私と共に一度この場を離れます」
「それは恭輔の判断か」
「はい。香月フブキ、鷲家口ちせ両名もその判断に同意しています。私も可能性は低いとは思いますが非戦闘要員は一度退避したほうが安全と考えています」
 何かを思案する壱眼をよそにトランクにまわり、使えそうな装備を取りだす。防御用の呪符、宝石の埋め込まれた小型の盾、装飾のついた小刀。どれも相応の効果をもってその身を守ることの可能な呪物であろう。私はその中から盾と呪符を取りだした。

「どうかされましたか?」

 車の前方からの見知らぬ声に、私はトランクの横から前方を眺めた。車の前にはスーツを着た男が一人立っている。何処かで見たような気がするが、道が暗いせいか顔がよく見えなかった。
「どうかされましたか?」
 男はもう一度私に――そしておそらく車内の壱眼に向けて――声をかけた。私は、念のため盾と札を後ろ手に隠し、彼の前に姿を見せた。
「いいえ、なんでもありません。失礼ですが、あなたは」
「私、ここの家、宿見家の執事をしております佐久間と申します。変異性災害対策係の方でございますね? 先ほどお訪ねになっていたところを庭先で見かけましたもので、声をかけようかと悩んでいたのですが声をかけられず、あなた一人が玄関から外へ戻っている所を再び見かけまして、何かあったのではないかと思い声をかけた次第でございますが」
 玄関で会った宿見美代に比べると話し方はしっかりしている。しかし、執事が家の外に出た客をつけて敷地外までくるだろうか。それに、庭を通った際に彼がいたような気配はなかった。彼はいったいどこから現れたのか。
「お気遣いありがとうございます。ですが、執事さんにお手伝いしていただくような何かがあったわけではありません。職場の方から別件に関する連絡がありましたので、私だけ一旦職場へと戻らなければならなくなったのです」
「はて……それで、私がお手伝いできることはありますか」
 話が通じない。佐久間と名乗った執事は引き下がるどころか徐々にこちらへと近づいてきている。宿見美代と同様に何かがずれている。
――
 佐久間がボンネットの横まで来たかと思うと、低い獣の唸り声が聞こえた。とっさに周囲を確認するがそれらしき気配がない。
「佐久間さん、今の」
「今の? 何でしょうか。どうかされましたか」
 佐久間は立ち止まるものの唸り声については反応を示さない。気のせい……ではない。今も唸り声が断続的に聞こえている。それもごく近くから
「あの、何か御用なのではありませんか」
「だから、何もありません。いい加減にしてください」
 唸り声に気を取られて、つい佐久間に声を荒げてしまった。そして、私は唸り声の正体を知った。
 佐久間の足首から白くふわふわとした塊が数匹生えていた。眼も口もないそれらは佐久間の足に前足の爪を立て、佐久間の中から必死に身体を引っぱり出している。おそるおそる視点を挙げていくと、腰にも一匹、両肩に一匹ずつ、同じような塊が生えている。どれもが眼や口を持たないが、そのシルエットは生まれたての子猫のように見える。いや、この場合、虎の子供というべきなのだろう。唸り声はそれらの塊から聞こえているのだ。
 そして、佐久間の右腕は真っ白で強靭な動物のそれへと変化していた。
「いい加減に、いいかげんに、はい。それでは、ひと思いに」
 佐久間の目が濁った光を放ち、彼の右腕が大きく振りあげられる。あの右腕はまぎれもなく虎のそれだ。佐久間は怪異に呑まれている。
 彼の腕が振り下ろされる直前、私はとっさに隠していた盾を彼に突きだしていた。鈍い衝撃音と共に、目の前が青く光る。気が付けば、佐久間の身体は数メートル後方へと放り投げ出されていた。道路に転がった佐久間の声を聞き、私はこの盾が佐久間の腕から私の身を守ったことを理解した。
「また来るぞ、呪符を使いなさい」
 車の中から壱眼が指示を飛ばす。私は慌てて呪符を構えるものの、どうしたらいいかわからない。そのうちに佐久間が上体を起こし、立ちあがる気勢を見せ始めた。彼の右腕は先ほど以上にはっきりとした虎の腕へと変貌しており、身体から抜け出た塊の何匹かが彼の身体の別の部分までを虎へ変えようと身体を覆い始めていた。
「腕だ、右の手首の当たりにブレスレッドを付けているだろう」
 腕と言われても、佐久間の腕は虎にしか見えない。ブレスレッドはおろかそもそも手首すら見えないのだ。
「見えませんよ」
「落ち着いて。まずは霊感を押さえるんだ。あの腕は怪異に過ぎない。よくみれば彼の腕が見えるはずだ」
 言われたとおりに自分の霊感を押さえる。テレビの解像度を落とすように、佐久間の右腕を包むそれが輪郭を失っていく。やがて、靄のようにしか見えなくなると、その中心に佐久間の腕が姿を見せる。壱眼の言うとおり、手首にはブレスレッドのような装飾品がついていた。
 私はそれをめがけて数枚の呪符を投げつけた。「呪符を投げるときには、相手の力を呪符が縛りつけるようなイメージを持って」、事前に秋山から習った通りにブレスレッドを呪符が縛りつける場面を想像する。
 イメージ通り、呪符は佐久間の右腕に向かって真っすぐと飛んだ。しかし、腕を覆う靄の外側で止まり、青白い炎を発して焼き切れてしまう。
「もう一度だ。何度か投げればあの程度ならお前さんでも祓える」
 壱眼の声を信じて再度呪符を構える。佐久間はすっかり立ちあがり、体を低くし、突撃をする姿勢を見せていた。私は呪符を数枚投げつけ、先ほどと同じように盾を前に突き出して防御の姿勢を見せる。
 数秒の間もなく、再度青い光が走り、突撃してきた佐久間が後方へとのけ反った。しかし、今度は激しく後退することなく、彼は私の数歩前で踏みとどまる。もはや身体の半分以上が虎へと変容しており、右半分が虎へと変じた恐ろしい顔を私へと向ける。恐怖で身体がすくみ、呪符を投げる余裕がない。かろうじて彼の前に盾を見せているが、それとて何度も佐久間の攻撃を守ってくれるものではないだろう。
 ところが、弱気になった私の前で佐久間は突然力を失い地面へとへたり込んだ。全身を覆わんとしていた虎の怪異は姿を消し、そこには昼間邸内で見かけたのと同じ黒いスーツの男性の姿があった。右腕を見ると、ブレスレッドに巻きつくように数枚の呪符が張り付いていた。
「やったの?」
 盾を前に掲げながら、おそるおそる佐久間の顔を覘きこむ。先ほどまでのような濁った眼の光はなく、代わりに呆けたような表情を見せている。視界に入るように何度か手を振ってみるも、反応はない。どうやら気を失っているらしいと納得した時には、車から降りていた壱眼が佐久間の右手からブレスレッドを外しているところだった。
「壱眼さん、危ないですよ」
「大丈夫だ。もう彼から虎は現れんさ」
「そのブレスレッドが原因なんでしょうか」
「いや、直接の原因ではないようだな……媒介といったところだな」
 包帯の奥に隠れた眼で、壱眼はブレスレッドに宿る念を精査したのだろうか。彼はブレスレッドを懐に入れると立ちあがった。
「さて、夜宮さんや。どうやら私も恭輔も事態を読み間違えていたようだね」
「それじゃあ、怪異は虎ではなかったんですか」
 自分で言った言葉がおかしい。私がたった今観たのは虎の怪異だ。ただ、香月の戦闘記録の再現で観たそれとは明らかに雰囲気が違った。佐久間から現れた虎は、虎の衣から生まれたものではない。
「さてね。恭輔たちも気が付いているようだが、とにかく、私たちももう一度宿見邸内にお邪魔する必要が出てきたようだ。私はこれから邸内に入ろうと思うが、夜宮さんは一度係に応援を要請するべきではないかね」
 暗にこの場を離れろと言っている。しかし、いくら呪物を見抜く優れた眼を持つといえども、目の前の老人が戦闘に向くとは思えない。
「私も行きます。装備をもう少し揃えてからにしましょう」
 私はそう言って、再度トランクを開けた。

*******

 突き当たりの広間に二人。一人はさっき二階で出くわした男だ。彼は数メートルにわたって腕を伸ばすことができる。もう一人の方は初めてみる女性だが、下半身は完全に虎へと変異しているという。
「まったくなんていう化物屋敷なんだ」
 ちせの伝える廊下の様子を聞き、秋山は思わずため息を漏らす。
「それでも、おそらく彼らで屋敷内の使用人は全員よ。さっきから彼らが騒ぐ音しか聞こえない」
 一階の応接間で宿見香代と遭遇してから半刻くらいたったのだろうか。秋山達は怪異に憑かれた宿見家の使用人たちの攻撃をかわしつつ、邸内を逃げ回っていた。現在彼らがいるのは一階の端にある客間と思しき部屋である。廊下の端にあるため安全確認がしやすく、部屋の横に廊下を覗くことができる小窓がついていたので、一時退避場所として適切のように思われたのだ。
「それにしても、いったいどういうことなの、秋山。屋敷の人間はみんな怪異に憑かれていたじゃない」
「だから、何度も言っているだろう。僕と老の読みは外れたんだ。宿見家に巣くっていたのは虎の衣で虎に変異する怪異なんかじゃなかったってことだよ」
 誤りは素直に認めざるを得ない。応接間に現れた宿見香代は、全身から得体のしれない陰気を放出していた。彼女のまわりにある薄闇は、彼女を中心に広く屋敷内へと拡散しており、住人達の精神を犯していた。応接間まで案内をしてきた宿見美代の様子がおかしかったのもおそらくそのせいだろう。彼女の陰気は「虎の衣」を手にする前から既に他者への精神的干渉を行える力を持っていた、すなわち彼女の中には怪異が発生していたということになる。
「それじゃあ、宿見新造を殺した時には犯人は虎の衣を身に付けていたっていう秋山の仮説も間違いだったってこと?」
 香月の質問に秋山は首を振った。わからない。宿見香代に宿る怪異が虎に関わる何かであることはこうなった今でも疑いがない。彼女と共に応接間に現れた宿見美代も使用人であるという岸辺と名乗る男も、秋山達の目の前でその姿を虎へと変えた。宿見香代は姿を変えなかったものの、彼女の指示通り、美代と岸辺だったはずの虎は秋山達に襲いかかり、秋山の持っていた「虎の衣」を強取した。
 その後も邸内のあちらこちらにいる虎への変異が進んでいる従業員たちに追われ、秋山達は屋敷の中を右往左往しているのだ。
「今言えることは、宿見香代は僕たちと対峙したとき既に怪異が発現していたということ、それに屋敷内をうろつく使用人たちは全て彼女の怪異に犯されているということだけだ」
「それじゃ全くわかってないのと等しいんだって何度言ったらわかるかな」
「この状況下でそれ以上進展があるわけないだろう。僕は千里眼が使えるわけじゃない」
「二人とも、長々議論している場合でもないよ。いつ見つかるかもわからないし、沙耶ちゃん達だって心配じゃない。これからどうするの?」
 ちせが小窓から廊下の様子を伺いながら不安げに秋山達の方をみた。香月の方を見ると、彼女もまた秋山の顔を見つめている。
「とにかく、まずは宿見香代から『虎の衣』を取りかえさないと」
 この期に及んで、彼女自身も虎に変異するなんてことになったら、手がつけられない。
「彼女に憑いた怪異は?」
「確実に変異性災害に認定されるでしょう。屋敷の外まで広がっていないと思うけれど、否定しようがない。正体がなんであれ僕たちにできることは一つです」
 宿見香代に憑いた怪異を祓う。場合によっては強制的な“処置”をすることも厭わない。秋山の出した答えに、ちせと香月が頷く。
「それじゃあ、私が先に出て、腕の伸びる奴を落とす。あいつには応接間でさんざんやられたからね。今度は一気に落とすよ。その間に、ちせと秋山がもう一人を落として」
「注意しろよ。彼等はあくまで操られているだけだからな」
「何度も言わないでよ。身に付けている呪物を壊せばいいんでしょ。それ以上はやらないって」
 何度か襲われ交戦するうちにわかった数少ない事実だ。あの使用人たちは身に付けた呪物を媒介に宿見香代の怪異の影響を受ける。呪物を破壊すれば途端に身体を覆う虎の怪異は消滅し、彼等は呆けて崩れ落ちてしまう。
 香月がドアに手をかけて、小窓を覗くちせとのタイミングを計る。ちせが小さく左手を挙げたと同時に、香月は勢いよく廊下に躍り出た。
「そちらに、そちらにおられましたか! 当主様がお待ちしております!」
 香月に気が付いた執事が大声を張り上げた。香月は答えることなく水蛟を構えて彼に突撃する。常人ならば避け切れないだろう早さの突きに対して、執事はひるむことなく床まで垂れた尻尾のような右腕を振り回す。応接間でやったのと同じように、水蛟ごと彼女を包みこむつもりだ。秋山は香月のサポートをしよう思い前に出ようとするが、ちせがそれを制止する。
 そうしているうちに、香月は水蛟の軌道を変え、彼女を絡め取ろうと展開している右腕を切りつけた。長く伸ばした執事の右腕は水蛟によって綺麗に切断され、切断面から青白い煙を出しながら執事の下へと戻っていく。
「痛い痛い。何をするのですお客様。お客様お客様お客様」
 右腕だけでは香月を防げないと思ったのか、左腕までが尻尾のように変異していく。執事の顔はすっかり虎のそれに変わっているが、目元だけが人間の時のままで、きょろきょろと辺りを見回していた。
 執事が変化する間に、香月は彼の目の前まで近づき、左腕で彼を殴りつける。腕に巻きつけた梵字の呪により彼の身体は弾き飛ばされ、広間の中央へと後退する。それを見計らって、ちせと秋山は香月の後に続いた。
 広間に出てみると、香月と交戦する両腕尻尾の執事の他に、頭に二つ虎の顔を生やした女性がうずくまっていた。変異の途中で苦しいのか、二つの頭は唸り声を上げ続けている。よく見ると肩口から三つ目の虎の顔が生えようとしていた。
 秋山が動くよりも早く、ちせの右腕が女性に生えた虎の頭に突き刺さる。途端に虎の頭は膨れ上がり、軽快な破裂音を立てて消滅する。ちせの右手は既に女性の首元にかかった勾玉のついたネックレスを掴んでおり、もう片方の頭がちせを捉えるよりも早くネックレスを引きちぎる。
「先手必勝ってね」
 後に残ったうずくまる女性の姿を見て、ちせは秋山にガッツポーズを見せた。
「同じ攻撃ばかりで私を倒せると思うなよ」
 声を張り上げた香月が執事の腰元から何かを切り落としたのが視界に入る。同時に執事の変異が止まり、彼もまた床に崩れ落ちた。
「どうも、僕の出番はないみたいですね」
「戦闘は私たちに任せるって話だったじゃないの秋山クン」
「そんなことより、ここ、裏口だよね、もう屋敷内はほとんど回ったんじゃない? 宿見香代はいったい何処にいるの」
 秋山のため息を無視するように、香月が広間の周りを見回した。確かに、秋山達は執事に追われるようにして屋敷内を歩き回っており、ここでおおよそ全ての場所を捜索していることになる。あと探していない場所といえば……
――ガタン
「何?」
「きゃあ!」
 突然開いた裏口のドアに近くにいたちせが拳を向ける。その様子に驚いたのか、ドアの向こう側にいた誰かが大きな声をあげて盾のようなものを突きだしていた。
「って、沙耶ちゃんじゃない。後ろにいるのは壱眼さんですか? どうして裏口なんかに」
 ちせが拳を下げて二人を屋敷内に招き入れる。壱眼は広間に倒れた二人の男女を見て、屋敷内で何が起きているかを悟ったらしい。男の方に近付きすぐさま横に落ちている爪のようなアクセサリを手に取った。
「あの、屋敷の外で怪異に憑かれたような執事の人に襲われて……それで壱眼さんが屋敷内に入ると言うので護衛でついてきたんです。けれども、玄関のドアはどうやっても開かなくて。仕方がないから裏口まで来たんです。でも、庭の中にも何人か虎に姿を変えた人たちがいて」
「庭の中にも? 夜宮さん、それ本当ですか」
「はい。幸い壱眼さんが身に付けている呪物が原因だと見抜いてくれたので、その人たちは元に戻って庭で倒れています。それより、これはいったい」
「秋山にもわからないって。宿見香代に憑いていた怪異の仕業だと思うんだけど、どうも私たちが思っていたのと違うみたいで」
「まずは宿見香代を探そうと思っているんですが、どうも屋敷内にはいないみたいで……あと探していない場所は呪物保管庫だけなんですが」
 あのようなところに逃げ隠れてもいずれ見つかってしまう。秋山達を執事によって錯乱させているうちに彼女は邸内から逃げ出したのではないか。
「ならば、呪物保管庫なのだろうな」
 じっと手に取ったアクセサリを見つめていた壱眼は秋山をみてそう言った。
「宿見香代は重蔵の眼を受け継いでいたかね?」
「ええ。貴方と同じように紫の瞳を持っていました」
「そうか……私についてくるんだ。彼等の持っている呪物から、宿見香代の居所はだいたい想像がつく」
「老には“見えて”いるということですか」
「そうだな。私には、“見えて”いるさ。いや、“見えた”のだと言った方が正しいかもしれないな」
 できれば見たくはなかったのだがな。秋山はそう呟く壱眼の声を聞いたような気がした。



 これがお前と話すことができる最後の機会だろう。我は間もなく完全な獣の姿に戻ってしまう。そうすれば、我がお前と話すことも、お前の前に姿を見せることもなくなるだろう。長い間、このような姿の我と語らってくれたこと、ありがたく思う。
 たどたどしい言葉で伝えられた最後の言葉はおおよそこのような意味だったと思う。そのころには既に私が誰であるかすらも判別できず、獣はただ暗闇の中で獣の声に反応してくれる存在に対し、言葉を残したに過ぎなかったに違いない。
 その後、どんな風に歩いても、どこを探しても、私はあの暗闇の部屋へ辿りつくことができなくなった。それは、私と獣の別れを示す事実であり、獣が人の姿を捨てて、獣として闇の中へと駆けていってしまったことを改めて私に突きつけた。
 私は、真実を語り私を正面から見る存在を失ったのだと知り、悲しみにくれた。己が真実を知り独り暗闇へと駆けていった獣を憎らしく思った。けれども、同時に、暗闇へ駆けていくしか選ぶことができなくなった獣の姿が愛おしく、その後も心の奥底にあの部屋の光景を抱き続けて生きてきた。
 獣との時間を失った私の世界は、在りし日の色褪せたものへと戻っていった。私の周りの者たちは、私が見える真実が見えない。私ばかりが見えることを畏れ、私の眼を偽りの鏡で封じようとした。しかし、外見が彼等と同じようになったとしても、私と彼等の間の差は埋まらない。私には見えて、彼らには見えないのだ。
 私は彼らとの差に苦しみ、次第に私にだけ見える世界と対話をするようになっていった。そうしているうちに、再びあの部屋への道が私の前にうっすらと開くようになった。私はその小さな糸を求めて毎夜のごとく声を辿り、昼の間も耳を澄ますことに集中するようになった。
 幾日の日々を費やしただろうか。気が付くと、私はあの部屋の中に立っていた。そこにはかつてのように暗闇が広がっている。けれども、あの獣の気配はない。やはり、暗闇の先へと駆けていってしまったのだ。自らの手でその事実を掴み取った私に襲いかかったのは圧倒的な喪失感だった。この部屋を訪れれば過去が舞い戻る。そんな考えは幻想に過ぎなかったのだろう。
 ただ、私の目の前には、あの獣の残り香があった。私はそれを掴み愛おしみ、残り香でしかないことに憎しみをぶつけた。その様子に、私の周辺は戦き、私から残り香を引きはがそうと躍起になった。
 彼等の追求から逃れるため、一度は手を放さざるを得なかった。しかし、運のいいことに私は再び手に入れたのだ。あの愛おしく憎らしい獣の残り香を。
 そして、今宵こそ私もあの獣の後を駆けていくのである。獣と出会ったこの場所で。

*******

 壱眼に連れられてやってきた場所は呪物保管庫の地下一階だった。呪物保管庫は宿見家の人々が暮らす本館から二階の渡り廊下を渡った先にしか出入り口がない。宿見新造が殺害されたのは二階部分であったため、秋山達が地下一階まで降りるのは初めてのことである。
 地下一階は上層に比べると書物の量が増え、壁伝いに本棚が、壁と平行になるように呪物の保管棚がいくつも並んでいる。階段の裏側だけは作業スペースであったのか、本棚が一つ置かれているだけで少し空間が開けていた。
 しかし、その何処を見渡しても、宿見香代がいるような気配はない。
「ここで行き止まりだけど、宿見香代の姿なんてなかったよ? 本当にここでいいの?」
 さっそく香月が壱眼の案内に疑問を呈する。壱眼はそれに答えることなく、保管庫内の本棚や呪物の棚を逐一見て回り、何かを探していた。
 その様子を見ながら、秋山は呪物保管庫に入った時から感じていた妙な感覚の正体を探っていた。
 呪物保管庫を下へ下へと降りていく中で秋山はここが図書館の持つ積層書庫と似た印象を受けることに気が付いた。棚やガラスケースに、あるいは紐で纏められて立てかけられるなど、あらゆる方法によって大量の呪物が保管されている。そのどれもが無造作に保管したものではなく、一定の分類に従って、呪物同士が反発し合わないように置く場所までも考えて安置されているようである。熟練した呪物蒐集家である壱眼が宿見重蔵から学ぶべきことが多いと言ったのも頷ける。
 しかし、重蔵の死後は手入れをされていなかったという割には保管庫の中は綺麗に掃除が行き届いているのではないか。そう考えて、秋山は一つの考えに至った。重蔵の死後、宿見香代は頻繁にこの保管庫に出入りしていたのではないか。しかし、何故……
 秋山が考えを巡らせているうちに、壱眼が部屋の捜索を終えたのか、階段裏へと戻ってくる。そして、一つだけある本棚の中の一冊の本を抜いた。
「隠し通路……」
 本棚が横にスライドし、目の前に暗い通路が開ける。壱眼を除く全員が突然の事にどう反応すればいいかわからなかった。秋山は、壱眼が呪物に残った念を頼りにこの場所を探り当てたのだと気付き、そして宿見香代が保管庫に出入りしていた理由に予想がついた。
「まさか、この先が老の話していた宿見重蔵の“遊び”場なんですか」
 秋山の問いに壱眼が頷いた。
「そうだ。上にいた使用人たちの持っていた呪物は全てこの先から持ち出されたものだよ。力のほとんどが失われていたが、まだこの先にあったころに染み付いた念が残っていた。これらを取りだしたという事は、宿見香代はこの通路を知っていたということだろう」
 まただ。壱眼はまた自分に見えたことの一部を敢えて言わない。今日会ってからずっと、壱眼は自分の見えているものの一部を隠し続けている。けれども、今の秋山には彼に見えたモノの想像がついた。そして、彼が口に出したくない理由も。
 だから、更に聞くことはせずに、秋山は隠し通路の中に進む。他の者たちも秋山にならって隠し通路の中に入っていく。通路の中は意外と広く、並んで二人程度なら歩ける構造になっていた。通路の先に罠がないことを確認して、保管庫から灯りを持ってきたちせと香月に先を譲り、秋山は壱眼の横に並んだ。
「老。このまま進めば、おそらく」
「いいんだ。恭輔。私は君に依頼した。この騒ぎを収めてくれと。だから、君が、君たちがどのような結論を出したところで異論はないさ」
 その後、壱眼は顔を伏せたまま、秋山の方を見ることはなかった。
 やがて、目の前に呪物保管庫と同じくらいの広さを持った空間が現れる。正面の壁には大きな扉が備え付けられており、その横には古ぼけたストレッチャーが置かれている。灯りで周囲を照らすと、壁や床にところどころ黒ずんだ染みが目に入った。おそらく血痕なのだろう。
「この扉の先に宿見香代がいるんでしょうか……?」
 背後で夜宮が心細い声をあげた。誰もがその言葉に反応できず、ただ扉を見つめている。
「ここまできたら開けるしかないでしょう。フブキ、灯りを貸してくれ」
 秋山は扉の前に立ち呼吸を整える。壱眼の見たものが秋山の想像の通りであるならば、おそらく宿見香代の中に生まれた怪異とは秋山達がどうこうしたところで組みほどけるものではない。しかし、秋山は祓い師なのだ。現世に現れた怪異は等しく祓わなければならない。

「行きますよ。これから、宿見香代に憑いた怪異を祓います」

―――――――
予定よりも本文が長くなり、未だ終わりませんでした。すみません。
ということで、虎の衣を駆るは5まであります。
・次回 黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る5
・今後の予定 黒猫堂怪奇絵巻3 とおりゃんせ/「輪入道と暮らすほのぼのボヤ生活」
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