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家族の肖像(前篇)
2014.02.24 Monday
以前書いたラフテキスト呪絵
に肉付けをして,改題した短編です。
前後篇で終える予定です。
パソコンが開き難い環境で思いついた文章を残すのに,久々に手書きで小説を書いてみたら,案外文字数かさまないものなんだなと思い(結局長いけれども)たまには手書きで書いてみるのもいいのかもしれないと思いました。
―――――――――――――――
家族の肖像
絵とは描いた者の内面を抜き取り,被写体に重ね合わせたものである。
故に,時として,絵には被写体に対する描き手の想いが染み込んでしまう。
――西原当麻 絵画と怪異についての一考察
1
家中の荷物をあらかた梱包し,家の中に残っているのは最低限の家具と衣類だけだ。三か月という短い滞在期間も,今日で終わりだ。
私は,一休みしようと二階の自室から一階玄関へと続く階段を下る。リビングでは父と母が食器の梱包を終えて一息ついたところらしい。母は,お茶にしましょうと台所に消えていった。
私は,階段を下りる途中,壁紙の色が変色した部分に目をやった。そこにあったはずのものは既になくなってしまったが,四角く縁取られた黒い染みは,かつてそこにあったものを思い出させる象徴である。
そして,私たち家族に出来た小さな隙間の象徴でもある。
いや,本当はもっと前から溝はあったのだ。あの老人と青年が言うように,私たちは大きな問題を抱えているにも関わらず,誰も直視しようとしなかった。
ただ,それだけのことなのだ。
に肉付けをして,改題した短編です。
前後篇で終える予定です。
パソコンが開き難い環境で思いついた文章を残すのに,久々に手書きで小説を書いてみたら,案外文字数かさまないものなんだなと思い(結局長いけれども)たまには手書きで書いてみるのもいいのかもしれないと思いました。
―――――――――――――――
家族の肖像
絵とは描いた者の内面を抜き取り,被写体に重ね合わせたものである。
故に,時として,絵には被写体に対する描き手の想いが染み込んでしまう。
――西原当麻 絵画と怪異についての一考察
1
家中の荷物をあらかた梱包し,家の中に残っているのは最低限の家具と衣類だけだ。三か月という短い滞在期間も,今日で終わりだ。
私は,一休みしようと二階の自室から一階玄関へと続く階段を下る。リビングでは父と母が食器の梱包を終えて一息ついたところらしい。母は,お茶にしましょうと台所に消えていった。
私は,階段を下りる途中,壁紙の色が変色した部分に目をやった。そこにあったはずのものは既になくなってしまったが,四角く縁取られた黒い染みは,かつてそこにあったものを思い出させる象徴である。
そして,私たち家族に出来た小さな隙間の象徴でもある。
いや,本当はもっと前から溝はあったのだ。あの老人と青年が言うように,私たちは大きな問題を抱えているにも関わらず,誰も直視しようとしなかった。
ただ,それだけのことなのだ。
********
初めて見た時,私はあまりその絵が好きになれなかった。父は良く出来ていると絶賛し,家の何処かに飾ろうという話になった。結局,飾るのならばなるべく目立つところが良いだろうということで,リビングから二階へあがるための階段,その踊り場に絵は飾られた。
タイトルは「家族の肖像」。まるで写真のように精巧に私たち家族の姿が描きこまれている。作者である私の妹は,引っ越し前に撮影した家族写真を模写する形で家族の絵を描き上げたのだという。
まだ,習作だからと話す妹の自己評価とは裏腹に,とても良く出来た絵であったのは疑いない。ただ,何かが欠落しているような,もしくは何かが余計なような,そんな印象を受けてしまい,私はその絵が好きになれなかった。妹が習作だと言っていた理由もそんなところにあったのではないだろうか。
もっとも,毎日その絵が飾られた踊り場を行き来し,生活を続けているうちに,私の中にあった絵に対する違和感は消え,徐々に父がこの絵を褒めた気持ちがわかるようになってきた。ここに描かれているのは,まぎれもなく私たち家族であり,幸せな時間が綴じられている。そんな風に思うようになっていった。
私の家族は四人。印刷会社に勤める父と,専業主婦の母,そして大学生の妹に,ようやく仕事を始めた私。この家に越してきたのは妹が巻目市近郊の美術大学に進学したいと話していた折に,父の転勤先がたまたま重なったからだ。どうせならみんな一緒に棲める場所が良いと,わざわざ隣町から巻目市まで越してきたというわけだ。
私も職場は市から電車で一本なので,反対することもなく,特に誰が異論を唱えることもないままに私たちは前の家を空け,この家に移り住んだ。
それが,妹が大学に通うおおよそ二週間ほど前。
そして,あの絵がやってきたのがそこからほんの一月後。
2
妹は元々抽象画を描くのが好きだったのであり,静物画や,写実的な描写についてはてんで苦手だった。写生会などでは,私の方が評価の高いものを描けた。
彼女が大学に通い始めて一週間,初めに漏らした愚痴はそのことについてだったように思う。抽象画は辞めて写実的な描写の練習をしろ。君にはその才能があると講師に言われたのだとか。
絵のプロがいうことなら,信じて従ってみるのも一つなんじゃないか。私は妹にそのような話をした。今思えば,その時の彼女は少しむっとしていたように思う。まあ,習うより慣れろってことかもしれないねと,彼女の不満を受け止めなかったのは,彼女に写実画を描かせたら面白いのではないかと思っていたからかもしれない。
何はともあれ,妹は,愚痴をもらしつつも講師の言うとおりに製作を進めていたらしく,出来あがった初めての作品が「家族の肖像」というわけだ。
私は仕事帰りに踊り場で足を停めて,家族の肖像を見る。良く描けていると思う。抽象画しか描かなかった妹の絵とは思えない精緻さである。ところどころ背景がぼやけている気もするが,その程度はなんてことはない。習作とはいえども,良い絵だ。だが,やはり違和感がある。私は,長らく忘れていたその違和感の正体を確かめようと,じっと絵と向き合った。
「あら,帰っていたの」
何かが掴めるような気がしたが,母の一声でそれは霧散してしまう。私は,母と一言,二言話をし,いつものように疲れた身体を休めるために寝床へと入ってしまった。
今思えば,このころ既にあの絵が何でおかしいのか,気付くことはできたはずだ。けれども,私はそれ以来,あの日に至るまで一回たりともあの絵の違和感について気がつくことができなかった。それもまた,私たち家族の間にあった隙間のためなのかもしれない。
*******
仕事を終えて家に帰ってくると,妹はたいてい自分の部屋にいて,それは定時帰りの時でも変わらない。
定時帰りの時は,父より少し早く家に着き,母と共に食事の準備をする。
一通り食卓の準備が整う頃には妹が首を傾げながら降りてきて,そして階段の前に飾られた自分の絵を見てちょっと立ち止まり,母に呼ばれて残りの階段を駆け降りる。
それが「家族の肖像」が我が家に来てからのルーチンになっている。
父は私たちが食卓に座って雑談しながらテレビを見ているころに帰ってきて,いつもリビングで私たちの方を向いてちょっとだけ立ち止まる。
それは私がたまに定時に帰ってくるからかもしれないし,女三人かしましいからかもしれない。母がおかえりなさいと声をかけると,父は自分も家族の輪に入った感触を覚えるのか,ほっとした表情を見せて背広を脱ぐ。
昔からあんな感じだったの? と母に聞くと,父は女の人が苦手だったのだという過去が聞ける。父はその話を耳にすると,耳まで赤くしてそそくさと手を洗いに行く。
自分の娘でも女の人は苦手なのよという母に,なさけないなーと妹。確かに,私がまだ幼かった頃でも父は私に触れる時かなり気を使っていたように思う。
父が食卓に着くと,夕食の始まりだ。
私は,ふと妹の調子を尋ね,妹はぼちぼちであると答える。そういえば,最近は抽象画を描かないの? と尋ねると,珍しく妹の手が止まった。
描かないよ。今は講師の先生に止められているんだ。
止められているとはどういうことなのだろう。私は興味を持ってそこを尋ねてみる。妹が言うには,抽象画を描くよりも写実画を描く方が妹には向いているのではないかというのが講師の見立てであるらしい。抽象画を描きたいのだけどという妹の要望に対しては,今しばらく写実的な技法を学んでから抽象画に戻ると,描きたいものがより鮮明に描けるようになるから今は我慢の時であるとのこと。
なるほど確かに。抽象的な絵を描くにしても,具体的な物の描写は出来た方が良いかもしれない。私は講師の意見に頷くが,妹はそれでも抽象画は描きたいんだけどねと名残惜しそうである。まあ,技術が向上すれば描けるんだから頑張りなさいなという母の励ましでこの話題は終わってしまう。
あとは,昼間に見たニュースの話やら,父の仕事の話やら。家族の食卓で出る話にはある程度の限界がある。でも,日常的な話を日常的に行える,そのこと自体が健全な生活の現れなのかなと,私はそう思って箸を進めていく。
健全な生活であるならば,このままの時間が長く続いて欲しい。失われることなく,妹が描いた絵のように時間が進んでいけばよい。
3
「やめて,奪わないで」
はじめに聞こえたのは母の叫びだった。私は,生まれてこの方,あのような母の叫びを聞いたことがなかった。
母の声は,動揺で震え,上ずり,かすれていた。その時,母に起きた出来事がどのようなことであったにせよ,母は誰かに,いや,家族に救いを求めていたはずだろう。叫び声を聞いた私は,一刻も早く母の下に駆けよるべきだった。
しかし,母の叫び声を聞いた私の足はすくみ,心は怯えた。どうして,と尋ねられたところで,今も,これからも,結局は理由など分からない。強いて言えば,怖かったのかもしれない。私は,彼女の叫び声の正体を知ることが,私たち家族が抱える隙間を暴き立てるものであると,直感的に感じていたのかもしれない。
玄関に立ちつくしていた私を正気に引き戻したのは,リビングから響いてくる母のすすり泣きと,それを必死になだめている父の声だった。靴箱の上に置かれた時計を見ても,まだ夕方になったばかり。私は体調がすぐれなかったから会社を早退してきたのであって,いつもなら,家に帰ってくる時間ではない。それは,私よりも遅く帰ってくるのが常となっている父も同じはずだ。
本来なら,この家には母と私しかいないはずだ。それなのに,家の中には父がいる。不意にそのことが恐ろしく感じた。足の震えを止めようとしても,一向に止まることはない。玄関の扉の先には見てはいけない光景があるのではないか,そんな予感が胸中を占めて,たった五歩先の扉がとても遠く感じられた。
「ただいま。あれ? お姉ちゃん?」
立ちすくむ私の後ろに,妹が追いついた。
********
母がリビングで叫び声をあげたその理由について,父は語ろうとしなかった。いや,それどころか,父は母の豹変について自体,一切触れようとしなかった。
妹が私に追い付いたとき,私は妹に状況を教えるべきか,自分の抱えた恐れを妹に伝えるべきか逡巡した。その結果,妹が若干様子のおかしな姉を引きずる形で家の中に入っていった。私たち姉妹がリビングに入ったとき,母は努めて明るい表情で私たちを迎え入れ,その乱れた髪や泣きはらしたであろう顔を隠しながら,ちょっとゴキブリが出てびっくりしたのと笑った。父は母のその様子を見つめていたが,どうして父がこの時間に家に居るのか,父が母の何を見たのかを子供達に伝えるつもりはないようだった。それどころか,父は私たち姉妹などいないかのように,ただ母の横顔を見つめるだけだったのだ。
その時の彼の表情は,どこか疲れ切っているように見えたが,残念な事に,私はそのような父にかける言葉を持っていなかった。だから,彼がどのような心境でその表情をしたのかも,妹と楽しそうに話し始めた母に何があったのかも最後までわからないままだ。
家族四人が家に揃い,私たちは食卓で席を並べ,他愛もない話をしながら食事を続ける。母と妹が,妹が描いたという絵の話で盛り上がる一方で,父と私は互いに何かを語るわけでも,母と妹の会話に混ざるわけでもなく,ただ黙々と食事を続けた。まるで,二人とも自分の一言が家族の食卓を壊すのではないかと怯えているかのようだった。
私たち家族の間には,家族であったとしても暴いてはいけない何かが横たわっている。そうした考えが頭をよぎるたびに,私の目の前の食卓は色を失っていった。
私たちは家族だ。父は勤め人で,私はまだ駆け出しの社員に過ぎない。妹は大学で美術を学び,母が私たち三人の代わりにこの家の留守を担っている。私たちは普通の家族だ。どこにでもいる駐留の家族なのだ。そう,妹が描いたこの「家族の肖像」のように。
彼女の描いた「家族の肖像」に描かれた私たちは,とても幸せそうな顔をしている。家族全員でこういった顔をしていけるように日々助けあう。家族とはそういったものだろう。
私はふろ上がりの頭をバスタオルで拭きながら,改めて妹の絵を眺め見た。彼女には抽象画だけではなく写実画が描けるだけの才能がある。そう言われれば,確かにそうなのかもしれない。それほどまでに此処に描かれた私たちは美しかった。
しかし,その美しさとは,彼女が私たちの家族を見て感じたことに過ぎないのだろう。写実の心得も才能も,これを描いた当時の彼女には備わっていなかった。それでもこれほどまでの絵が描ける,そのことが彼女の潜在的な可能性を示したものなのかもしれない。この絵に描かれたのは,妹が愛する私たち家族の形だ。
ふと,絵の四隅が気になった。飾り始めた時よりも,やや黒ずんでいるように見える。私は黒くなった部分に手を伸ばし,
*******
食事がおわり,食後の団らんが終わると,妹は自室にこもって絵を描き始める。この家に越して来てから,一日たりともその形が変わったことはない。父はリビングでくつろいでいるか,一階の書斎にこもり何かを調べている。母は食卓を片づけ,リビングで「家族の肖像」を前にして編み物のしていることがほとんどだ。私は仕事の疲れが酷い時は自室に戻るが,大抵は母と食事の片づけをし,仕事のことや家族のことなどをぽつぽつと話し,自室に戻っていく。
食卓ではあれほど明るい家族なのに,それ以外の時間,私たち家族の間にはほとんど交流はなく,改めて思い返せば,この家は静寂に包まれている。今まで,そんなことを気にしたことはなかった。マンションで暮らしていたときと異なり,今は一軒家だ。部屋と部屋の間には廊下があり,四人で暮らすには広い空間が私たちの生活を区切っている。同じ場所に家族が集まる機会が減り,家に静けさが充満するのも仕方がない。そう思っていた。
けれども,母の叫び声を聴き,何も語らぬ父を見て,何事もなく妹と会話する母のいる食卓に座り,今夜の私の心は怯えていた。この家は死んでいる。私たちは既に互いに互いのことがわからなくなっている。廊下に満ちた暗闇が,私たちを呑みこもうとしている。そんな想像が頭をよぎり,身体は震えた。
人間が四人も暮らしている。それなのに,この家は酷く暗い。自室からリビングへと続く廊下の床は見えない。明かりをつけようにもスイッチはリビングへ続く階段の横にしかない。私の部屋は二階の一番奥で,隣の部屋は書庫。そして,一番リビングに近い部屋が妹の寝室兼アトリエだ。書庫の扉からも妹の部屋の扉からも一筋の光も漏れてこない。しかし,それでも妹はアトリエで絵を描いているのだろう。そう思う。
妹の部屋の隣を抜ければ,リビングへと下る階段が見えてくる。階段の踊り場に掲げられているのは,妹の描いたあの絵だ。リビングには人影がなく,カーテンの向こうから薄らと差し込む月光だけが,室内を照らす光源だ。それでも,部屋の前の廊下に比べて,階段はどうにか視界にとらえられる。
みしり
おそるおそる踏み出した足が一段目の床板にかかり音を立てた。静寂に包まれた家の中で,みしりという音だけが存在感を示し,私は何かとてつもないことをしでかしたような罪悪感に包まれた。室内が再び月光だけに支配されるまで,私は二歩目を踏み出すことができなかった。
みしり
やはり,階段は音を立ててしまう。日頃利用している時にも,この階段は音を立てていただろうか。いつもは誰かがいるリビングを通っているから気にならなかっただけなのか。それとも,今日が特別,いや,そもそも私の立っているこの場所は,本当に私の家なのだろうか。私は本当に此処に居るのだろうか。いや,何処にいるのだろう。
みしり
だが,私の目の前にはあの絵が立てかけられており,階段は確かに私の重さを感じている。月光が照らすリビングは確かに私が日頃暮らしている家のそれだ。私はまぎれもなく私の家にいる。私はその確信と共にそっと階段を下り,踊り場に立った。
妹の描いた絵の前に立ち,目を閉じる。月光が絵を照らしているならば,今の私にもこの絵が見えるはずだろう。絵に描かれた理想の家族,私はそれが見たい。そう思って,ゆっくりと目を開いた。
コチラニオイデ
私の視界には「家族の肖像」があった。月光に照らされたそれは明るい部屋でみるものよりもやや青みがかっていたが,まぎれもなく私が見たいと願った絵だ。そして,その額縁からは焦げ臭い何かが染み出ていた。染み出た何かは壁を伝い勢いよく流れ出て,私の足元を覆っていく。
オイデ オイデ キミハコッチ
足首を誰かに掴まれるような感触がして,私は思わず飛び上がろうとした。だが,私の足は踊り場に引き寄せられ,私はそのまま尻もちをついた。
ぺちゃり。
踊り場に広がった黒い何かが身体に飛び散った。そして,気が付けば背後から誰かの腕が私の腰に回っている。何が起きたのか理解ができなかった。私は後ろを振り向く前に,自分の足元に目をやった。
月光に照らされているはずの踊り場は黒く深い闇に包まれている。それは焦げ臭い匂いを振りまきながら私の身体に染み付いていく。そして,私の両足首は踊り場の床面から這い出てきた小さな手によって引っ張られていた。
キミハコッチダ ハヤク
背後でささやく誰かの声と,その息遣いに私は悲鳴をあげた。
*******
次に私が目覚めた時,私は私の部屋で布団を頭まで被り身体を丸めていた。カーテンが太陽の光で暖かな色に変わり始めているのをみて,朝の訪れを知った。
昨日の夜の出来事は夢だったのか。おそるおそる身体を起こして足首を確かめる。昨日,風呂に入ったときにみたのと同じ私の足首がそこにある。特に変わった所はなかった。
着替えを済ませてリビングに下りてみれば,いつもと同じように父がコーヒーを片手に新聞を読んでいた。妹は朝食のパンをくわえ,手元のバッグに荷物を詰めている。階段の踊り場には夜に見たあの黒い何かが溢れていることはなく,いつも通り,木目調の床板があるだけだ。
「家族の肖像」,あの絵はどうなっているのだろう。踊り場の床から壁に掛けられた絵に視線を動かした時,壁を伝う黒い筋が目に入った。
これは何だ。昨日まではこんなものはなかった。いや,昨日の夜,額縁から漏れ出ていたのはこの黒い筋なのではないか。私は,今にも私に囁きかけたあれが迫ってくるように思えて,顔を上げて絵をみることができなかった。それどころか,母が私の姿に気がつき,声をかけるまで私はその場から一歩も動くことができなかった。
この日から,私は夜毎あの黒い何かが絵から漏れ出してくる夢を見るようになった。初めは踊り場に溜まっていくだけだったそれは,次第に黒い腕を伸ばし,私と妹が眠る二階に向かって階段を昇り始めていた。私は,その様子を階段の上から覗きこみ,何もできずにただそれに怯えているのである。そして,腕の後ろから持ちあがる何者かの頭が私の方に向き直る寸前で,私は夢から覚める。まるで,その者の正体だけは知りたくないと身体が拒否をしているかのように。
夢は日を追うごとに進行している。今ではあの黒い何かは私の部屋のベッドの下まで満ちている。部屋の中で助けを呼んでも妹はやってこない。書庫を挟んだ向こう側のアトリエまで,私の声が届かないのだ。両親は一階で寝ている以上,私の声は届くことがない。
何よりも,これは私の夢なのだ。私の家族は夢の中までは助けに来てくれない。
私はあの日から「家族の肖像」を見ていない。絵に感じていた違和感の正体も,あの黒い何かの存在も,全ての答えは「家族の肖像」にある。私の直感はそう告げている。
けれども,もし,あの絵が,私の目覚めている間にも黒いなにかで塗りつぶされていたならば,それは私たち家族が何かに塗りつぶされ,形を失くしているのと同じだ。だから,私はその絵をみることができなかった。
今の状況は,私のそうした弱さが招き入れたものなのかもしれない。もっと早く,父に,母に,妹に,この夢の事を相談すれば良かった。父に母の身に起きている異変を訪ねておくべきだった。あの絵を確認するべきだった。
私たち家族の間に広がっていく隙間について見つめなおすべきだった。
しかし,今となっては後の祭りだ。
もはや黒い何かはベッドすら呑みこみ,私の身体は黒い何かの中に沈みかけている。私の身体にまたがった人影が,私の首に手をかけて,私がもがいて外に出ようとすることを邪魔している。
私は,目の前の人影と私にまとわりつくこの黒い何かに今夜殺される。助けを呼ぶ手段はない。身体は動かず,息もできず,思考が黒に溶けていく。
コロスダッテ ナニカダッテ ワタシハ キミハ ワスレタノカ
人影は,私に顔を近づける。やめろ,私はその顔を見たくない。お前の顔なんて見たくはないんだ。
ナンダ オボエテイルジャナイカ ソウ ワタシハ
人影は,私が一番聴きたくない言葉をつぶやき,私は黒に呑まれた。
――――――――――
次回予告 家族の肖像(後篇)
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