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怪異の伝染について(ラフテキスト)
2013.08.15 Thursday
怪異の伝染についてどう考えますか?
という質問を受けたので,ぼんやりと色々考えてみた。
全然文章がまとまらないし,きちんと検証するにはもっと類例を集める必要があるかなと思うけれど,ひとまずとりとめもなく考えたことを書き記しておこうと思う
という質問を受けたので,ぼんやりと色々考えてみた。
全然文章がまとまらないし,きちんと検証するにはもっと類例を集める必要があるかなと思うけれど,ひとまずとりとめもなく考えたことを書き記しておこうと思う
怪異が伝染するかどうか
Q 怪異は伝染しますか?
A 物と視点によりけりなのではないかと思う。
【1 定義】
怪異:常識では考えられない超常的な出来事(不思議な出来事),あるいはそれを惹起する存在
伝染:物事の状態・傾向などが他に移って同じような状態が起こること。
つまり,怪異の伝染とは大雑把に言うならば,不思議な出来事あるいはその存在が発生源とは別の場所へ伝播することと思われる。
但し,上記定義における怪異は,具体例をあげるならば,口裂け女やトイレの花子さんといったお化け・都市伝説の類,キツネ憑き,蛇憑きといった憑きもの筋,パイロキネシス,テレパシーといった超能力など多種多様な物を含むものである。したがって,怪異が伝染するかどうかはそれぞれの怪異の性質によりけりなのだと考えられる。
【2 具体例】
(1)口裂け女
口裂け女とはマスクをした女性に「私綺麗?」と尋ねられ,綺麗と答えるとマスクを外し口の裂けた状態で答えた者を追い回すといった怪談の一つであり,バリエーションが多岐にわたる有名な話である。
この口裂け女の噂は,1979年の春から夏にかけて日本で流布され、社会問題にまで発展したという記録がある。本論から外れるので詳細は省くが,全国の小学校でこの噂が広まってしまい,登下校の際に教員や家族が駆り出されるといった事態までが発生したのだという。
口裂け女の発生源がどこであるかは定かではないが,少なくてもこの怪異は生息域を日本全国に広げていったのであり,口裂け女は伝染した怪異である。
もっとも,口裂け女が伝染したという評価は,“噂が広まった”事実を見て,発生源が伝播しているとの推認があってこその結論である。
見方を変えて,例えば口裂け女に遭遇した子どもから,周囲の子どもたちへと口裂け女は伝染するか? という切り口で怪異の伝染の有無を捉えた時,その答えは判然としない。口裂け女に遭遇した子どもを核にして,その子どもの友人関係を辿って襲う人間を決める,そうした行動様式をもっているという話はバリエーションとして存在するものの,口裂け女の一般的な怪談の形ではない。
つまり,噂の伝播に着目した場合には全国的に怪異は伝染したが,体験した個人を核にした伝染が見られないのが口裂け女の怪談である。
(2)超能力等
パイロキネシス,サイコキネシス,テレパシー。人間が超常的な力を得る話は古今東西に存在するが,超能力をもつ人間の周囲に新たな超能力者が生まれる,すなわち超能力の伝染があるという話はまずない(何らかの原因により,同一カ所で超能力者が大量発生するという話はある)。したがって,超能力は通常伝染しないと考えられる。
(3)憑きもの筋
所謂キツネ憑きやクダ憑き,犬神憑きなど,憑きものの類はどうだろうか。日本における憑きものの説話は,憑きものがついている者がいる家はその帰属する共同体のなかで栄えるといった形をとるものが多い。また,憑きものはその家の誰かに憑いて怪奇現象を起こすのであるが,家自体が憑きもの筋と呼ばれることが多い。憑きものは家に憑き,代々その家の子へと受け継がれていく。
このような憑きものの構造をからすれば,憑きものは家系を介して伝染するとも言える。もっとも,家系の外に憑きものが伝播することがないことから考えると,憑きもの憑きは家の中で完結しているといえるのであり,無関係に怪異が伝染していくものということはできないため,厳密には伝染する怪異と言うべきではないのかもしれない。
【3 怪異が伝染するとは】
(1)
結局,怪異は伝染するのか。
先の少ない例示の中でも,伝染しない怪異と伝染する怪異が存在するのであり,怪異の伝染の有無は怪異の性質によるものと思われる。したがって,一律に伝染の有無を語ることはできないのだろう。
ただ,これは完全な思い付きではあるが,怪異の伝染に関して,次のような類型化ならできるのではないだろうか。
それは,超能力のような特定個人の力として発現する怪異,特定の集団に受け継がれる怪異については,怪異は伝染しない。対して,個人に対して外部から襲いかかる怪異は第三者へと伝染するという仮定である。
つまり,当該怪異が伝染するか否かは,その怪異が体験した者の外からもたらされたものか,その者の内に生まれたものかによって決まるのではないか。
(2)
体験した者の内に生まれたものと,外から来たものの間にある違いは,おそらくある種の不安の有無である。もう少し言葉を付け加えるならば“自分が当事者になりうるという漠然とした不安”というのが正確かもしれない。
内なる怪異は,その当事者にとって恐怖以外の何物でもないかもしれない。しかし,当事者の外,周囲の人間にとってみれば,その当事者さえ封じてしまえば火の粉が降りかかることはない。周囲が怪異に対して取るべき対応は非常に簡明である。憑かれた者を排除してしまえばいいのだ。
対して外からくる怪異は違う。原因もわからず,怪異が持つ一定の法則に従って人々に牙をむく。法則が判明しているならばまだ良いだろう。当事者にならない為の防衛策を構築できるのだから。
だが,怪異は常識とは異なる論理の上にある存在である。その意図が読めない,法則がはっきりとわからないことも十分にありうる。そのような怪異が発生した時,未だ怪異に直面していない周辺の者達にとって,この怪異は脅威である。
いつ,どの段階で自分に降りかかるのかわからないどころか,それを避ける術すら持たないのである。怪異に出くわした当事者の話に怯え,心の中を不安でかき乱されてしまうのだと思う。
ところで,人間は,物事に意味が付与されて初めて物事を認知できるという考え方がある。この考え方によると,人は意味の付されない空白な物に対しては,自然と意味を付与しようとする習性があるというのだ。
もし,人にそのような習性があるのだとすれば,外からくる怪異はこんな風に伝染していくのかもしれない。
きっかけは,日常の些細な出来事でかまわない。
例えばこんな風に。
“私”は仕事の帰り道,家の近くの角を曲がる際に,視界の端に人影を捕えた。この近辺の住人は顔見知りであるし,それ以外の来客というのは郵便局や配達の人くらいなものである。しかし,さっきの人影は近所の人でも郵便の人でも配達の人でもなかった。
あれはいったい誰だろうか。近所に誰かが訪ねてきたのだろうか。それにしては,時刻が遅くはないだろうか。こんな夜に家を訪ねてくる者などいるだろうか。もしかして,あれは人ではなかったのではないか。
“私”の頭の中に最近良く聞く噂が蘇る。もしかして,さっきの人影は噂に聞く怪異だったのではないか?
事実,その人影は何処かの家への訪問者に過ぎなかったかもしれない。けれども,人影が見えた時に上手く意味を読みとれなかった“私”はその空白の人影に,巷で噂になっている恐ろしい怪異の姿を付与してしまう。そうすることで,“私”の中ではその人影が怪異となる。
このように,“私”は近くに怪異が存在するという不安により,“私”の中に怪異を呼び込んでしまう。
外からくる怪異は,往々にして発生原因がはっきりしない。だからこそ,怪異の発生を感知しても内から生まれる怪異と異なり,その発生原因を封じることが容易ではない。
そのため,怪異は多くの人々に不安を植え付け,そして伝染していく。
(3)
では,先の例のような怪異の伝染を封じるにはどうすればよいか。
もっとも単純な方法は,怪異を定義づけることだろう。この怪異は近所の神社を取り壊したことで現れた,この怪異は先ほど近所のアパートで亡くなった者の魂だ。意味を付与することで,了解可能な形に怪異を変換する。それにより,原因の隔離・排除を行いやすくなり,人は怪異から逃れられる。
但し,このような対処方法が特定の人間に向かってしまった場合は不幸だろう。人々は,発生原因だと決めたその者を排除にかかることで,自らの平穏を勝ち取ろうとするからだ。そのような行動の先にあるのは,怪異の排除という大義を掲げた特定人への容赦のない,理不尽な攻撃である。
この攻撃により,原因とされた者は共同体を去るかもしれない。それにより共同体は平穏を取り戻すだろう。怪異は無事に排除され,人々は秩序を勝ち取ったわけだ。
ただ一つ,この解決には疑問が残る。それは怪異が発生し始めた時点と,怪異に対処するために特定人を攻撃し始めた時点では,共同体内に漂う怖さの質が変化しているのではないかという疑問である。
前者において共同体を覆うのは未知なる出来事への不安だが,後者にはそれがない。怪異の原因は排除すべき特定個人に集約されているからである。しかし,他方で共同体の構成員は誰ひとりとして特定個人が怪異の原因であることを疑わないのである。原因とされた者を除いては。これは,見方によっては共同体全体が何かの憑きものに憑かれたように,一人に襲いかかる新しい恐怖なのではないだろうか
自らが生き残るために生贄を求め,徹底して生贄を攻撃することで自己の平穏を勝ち取ろうとする行為。それは一概に否定するべきではないのかもしれない。
ただ,一度排除行為が始まったならば,原因となった怪異などよりも恐怖にかられた人間そのものの方がよっぽど怖い存在になり果ててしまうのではないか。疑うことをせずに特定個人を追い詰める自分の姿を鏡で見た時,自分は人ではなく怪異となり果てているのではないかという不安が残るのである。
*********
裏付けも甘いし,内容も精査されていないので,これは本当に思い付きである。
今後,時間の取れた時にちゃんと裏付けを取っていきたいテーマではあるし,小説を書く時に常日頃考えていたことではあるのだけれど,順を追って人に説明するのは難しいものなんだなって思った次第です。
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