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現在は連作短編が二篇の他,短編小説,エッセイの類を掲載しています。
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2025.01.22 Wednesday
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不思議の国4
2016.03.05 Saturday
不思議の国、4回目。
この話で出てくる団地について。
団地に関しても、今回イメージを付けようと思って、近所の団地をいくつか訪れました。
結果、イメージなんてつかなかったので、団地ってなんやねんって思っています。
昔々、一度だけ団地に暮らした記憶があり、その時の感覚を元にすると、「団地=特定の企業や官庁の宿舎の集合」なのですが、外側から団地という建物の集合を見た時に、先のイメージに関する要素が見受けられなかったのが意外といえば意外でした。
というか、単にマンション・アパートが集まっているようにしか見えないんですよね……
団地の中でコミュニティが完結するのかといえば、商店などの各種施設は外側にありますから、そうとも限らないし、一つ一つの部屋はマンションの一室と変わらないのではないか、という印象を持ちました。
もっとも、例えば子供を育てている親などにとっては、近所づきあいがあるだろうし、近所の人同士で、相手の家がどんな仕事を生業にしているか薄々わかる(下手したら役職や人間関係までわかる)空間での近所づきあいというのは、普通のマンションとは違うのかもしれないので、建物だけ見聞してくるのは表面的な取材だったのだろうと思います。
おそらく団地というのは、建物としてではなく一つのコミュニティとして捉えるところから始めるべきテーマなのだろうという結論に至り、団地怪談的なものは次回以降の課題の一つに持ち越されてしまったのです。
(以下、本編です)
ーーーーーーーーーー
4
港町を訪れて二日目。
音葉は、部屋の中に差し込む日の光に刺激されて目を覚ました。いつも起きる時間よりも一時間ほど早い。
ベッドから起き上がり、二階のレストランに下りた。水鏡は既に起きていたらしく、ビュフェ形式の食事を十二分に堪能している最中だった。
周りの客のテーブルと比較すると優に二人前は食べている。
「おはよう。音葉」
音葉の姿を見つけた水鏡は、食べかけのパンを皿に置いて手を拭いた。あまり同行者だと思われたくない。そんなことを考える音葉に構うことなく、彼女は机の上の携帯を音葉に投げた。
「昨日の先生から何度か電話が来てる。それで、早く起きちゃったのだけど、音葉と話したいって」
携帯は、音葉を待っていたかのように震えた。音葉は、入り口で貰ったトレーを水鏡の向かいに置いて、電話を取った。
「やあ、ようやくお目覚めかい。おはよう、久住君」
電話の先の声は明朗快活だ。昨夜、浴びるほど酒を飲んで千鳥足で帰っていった男性とは思えない。鷲家口眠。この町で会った奇妙な旅行者だ。
この話で出てくる団地について。
団地に関しても、今回イメージを付けようと思って、近所の団地をいくつか訪れました。
結果、イメージなんてつかなかったので、団地ってなんやねんって思っています。
昔々、一度だけ団地に暮らした記憶があり、その時の感覚を元にすると、「団地=特定の企業や官庁の宿舎の集合」なのですが、外側から団地という建物の集合を見た時に、先のイメージに関する要素が見受けられなかったのが意外といえば意外でした。
というか、単にマンション・アパートが集まっているようにしか見えないんですよね……
団地の中でコミュニティが完結するのかといえば、商店などの各種施設は外側にありますから、そうとも限らないし、一つ一つの部屋はマンションの一室と変わらないのではないか、という印象を持ちました。
もっとも、例えば子供を育てている親などにとっては、近所づきあいがあるだろうし、近所の人同士で、相手の家がどんな仕事を生業にしているか薄々わかる(下手したら役職や人間関係までわかる)空間での近所づきあいというのは、普通のマンションとは違うのかもしれないので、建物だけ見聞してくるのは表面的な取材だったのだろうと思います。
おそらく団地というのは、建物としてではなく一つのコミュニティとして捉えるところから始めるべきテーマなのだろうという結論に至り、団地怪談的なものは次回以降の課題の一つに持ち越されてしまったのです。
(以下、本編です)
ーーーーーーーーーー
4
港町を訪れて二日目。
音葉は、部屋の中に差し込む日の光に刺激されて目を覚ました。いつも起きる時間よりも一時間ほど早い。
ベッドから起き上がり、二階のレストランに下りた。水鏡は既に起きていたらしく、ビュフェ形式の食事を十二分に堪能している最中だった。
周りの客のテーブルと比較すると優に二人前は食べている。
「おはよう。音葉」
音葉の姿を見つけた水鏡は、食べかけのパンを皿に置いて手を拭いた。あまり同行者だと思われたくない。そんなことを考える音葉に構うことなく、彼女は机の上の携帯を音葉に投げた。
「昨日の先生から何度か電話が来てる。それで、早く起きちゃったのだけど、音葉と話したいって」
携帯は、音葉を待っていたかのように震えた。音葉は、入り口で貰ったトレーを水鏡の向かいに置いて、電話を取った。
「やあ、ようやくお目覚めかい。おはよう、久住君」
電話の先の声は明朗快活だ。昨夜、浴びるほど酒を飲んで千鳥足で帰っていった男性とは思えない。鷲家口眠。この町で会った奇妙な旅行者だ。
「今日は、ええっと、そうだ。トウワシンポウのヤマダさんと裏路地を探すんだろ。それは、午後で間違っていないよな」
昨夜、酒の席で打ち合わせた内容が間違っていないかを一つ一つ確認する様子からすると、やはり、相当酔っていたのは確かかもしれない。だが、酒を飲み続けた鷲家口眠よりも、一滴も呑まず早めに眠った音葉のほうがぼんやりしている。
「午後で間違いないです。向こうから連絡が来るので、それで待ち合わせということにしていますが、だいたい13時から14時くらいを目途に」
「そうか。よかった。ホテルに帰ってから、君たちの話を思い返していたんだけれども、時間についてはやっぱりぼやけていてね」
やっぱりという部分が気にかかったが、おそらく酒を飲むと細かい部分は覚えられない性質なのだろう。
「でも、間違えてなくてなによりだ。久住君と水鏡君は午前中、時間があるかい。君たちの仮説の裏付けになるかはわからないが、件の死体、君たちも見たくはないか」
死体を見たくはないか。鷲家口の一言がどのような意味を持つのかわからないまま、音葉はその場に立ち尽くした。
「動くガラス細工と、ガラス化した死体、その違いがどこにあるのか。いや、その二つが本当に違うモノなのか、確かめるには自分たちで見るのが一番だ」
1時間後にホテルに行くよ。鷲家口はそう言って、電話を切った。テーブルに目をやると、再び朝食を始めるつもりなのか朝食のフルコースを並べた水鏡がいた。あろうことか、音葉の分まで朝食がある。
「あの人、来るんでしょう。はやく食べておかないと」
彼女の言う通りではあるのだが。目の前に大食漢がいると、どうにも食欲が失せる。
*****
等々力と名乗る警察官を見て、水鏡紅が「禿だ」と一言告げたので、鷲家口眠と久住音葉は思わず顔を見合わせた。
等々力が、元気なお嬢さんだと返したものだから、水鏡は彼のことを随分と老けているものと思ったようだ。鷲家口と等々力が少し席を離れたすきに、警察の階級について尋ねられた時には、音葉は頭を抱えそうになった。
もっとも、彼が水鏡の思うよりも遥かに若いことについて教えた時の、目を丸くした様子が面白かったので、気に病むことはやめた。
鷲家口眠は、電話の約束通りの時間にホテルのフロントに現れた。彼は、音葉と水鏡を町の病院へと連れ出した。病院は港とは反対の、山あいに建てられていた。彼の話によると、この町で発見される変死体は検視のためその病院に集まるのだという。
そのような話を聞いた後に、待合室で待たされていると、診察を待つ患者も全て死体や遺族なのではないかという妄想が膨らんでいく。その妄想を助けるかのように、待合にいる人々は、酷く虚ろな瞳をしていた。
やがて、院長と話をすると言って席を立っていた鷲家口と等々力が戻ってきた。鷲家口の歩き方が行きと比べて酷く荒れており、トラブルがあったのだろうと予想が付いた。
「いったいどうなっているんだ。全く理解ができない」
彼は、等々力に対して終始不満をぶつけていた。それを等々力がはい、へぇと受け流す。
「そう言われても、院長がああいう態度に出てしまわれると、これ以上私でも何ともできないですよ」
「何ともできないですよ、じゃないよ等々力君。そもそも、今回の案件は、君の依頼だろう。もう少し根回しというか、なんというか」
「そう言われましても。大体にして、鷲家口先生が私に連絡する前に死体を見つけてしまうから、彼らは警戒して……依頼の時に話したじゃあないですか、この町は少し妙だって」
この町は妙。等々力はその部分だけを、鷲家口と音葉、水鏡以外に聞こえないように声を潜めた。
「どうかしたのですか?」
話がひと段落ついたものと思って声をかけると、鷲家口は音葉に頭を下げた。等々力が、ここでは話辛いと音葉たちを病院の外へと連れ出す。自動車に戻る道すがら、等々力の口から、院長と彼らの交渉経過が告げられた。
「つまり、鷲家口さんが検死した死体は既に火葬処理に回されていて、死体はない?」
「まあ、院長の説明を真に受けるなら。先生の解剖所見はあくまで参考に過ぎなくて、別に検視官が検死する予定だったはずなんですけれどね」
「ガラス化部分を見られたくなかった?」
水鏡の疑問には、全員が首を傾げる。仮にそうだとすれば、院長は、ガラス化について何か知っていたことになる。
「でも、それなら初めに鷲家口先生に検視をさせた理由がない」
何かがちぐはぐだ。
「まあ、見られないものは仕方がない。久住君たちには無駄足を踏ませてしまって申し訳なかった。待ち合わせの時間まではまだあるだろう。等々力君が、ヤマダさんが言っていた失踪事件について調査をしている。どこかで一休みしながら、その結果でも聞こうじゃないか」
鷲家口に話を振られて、等々力は少々困ったような顔をした。
「ああ、その件なんですけれどね」
「そっちも空振りしたというわけじゃないよね」
「そんなまさか。ただ、先生が求めているような何かに繋がるとは思えないですよ。というより」
久住さん。あなた、ヤマダとかいう人に、一杯食わされていませんか?
*****
「まず。トウワシンポウという会社ですが、この港町に確かに存在しました」
ハンドルを握る等々力は、そう話を始めた。存在しましたと過去形で話すのを聞いて、音葉は、今朝方の鷲家口眠との電話を思い出した。
「東西南北の東に、鳥の羽の羽で、東羽新報。30年ほど前に設立した会社です。その名の通り、地方新聞を発行していた会社でしてね。地元紙としての人気は高かったようです」
等々力の言葉は全て過去形で進んでいる。そのことから予想される結論に、音葉は背筋が寒くなった。
「その東羽新報ですが、10年前に倒産。現在は全く違う名前の雑誌社になっています。つまり、ヤマダという方は、今は存在しない名前の新聞社に勤める記者と名乗った。
まあ、ここまではよくある話です。あまり気にしないでください。問題はここから。ヤマダヒサシ。彼はそうフルネームを名乗ったそうですが、東羽新報には実際にそう言った名前の人間がいました。
倒産直前の社会部の編集長。山田寿。彼は、生前、当時この町で起きていたある事件を追いかけていた。それは、この町で起きた失踪事件の一つでしてね。失踪したのは、山田の部下、佐藤という男です。彼は、当時港町を賑わせていた強盗事件の取材の最中、行方をくらませた」
等々力の車は山あいの道を抜けて駅前へと戻っていく。等々力のハンドル捌きはとても滑らかだ。先を行く乗用車やトラックを次々に抜いていくので、怖いくらいである。
「佐藤という記者は、港町の職人街に犯人が逃げ込んだと思っていた。それで、職人街を何日も渡り歩いて取材をしていたのだそうです。ところが、不意に佐藤は姿を消した。姿を消す直前、彼は山田に連絡していったそうです。
強盗犯はここにはいない。ここにあるのはガラスだけだと。人間はいない、ガラスがいる。奇妙な発言ですよね」
等々力に横目で同意を求められ、助手席に座った鷲家口が頷いた。音葉も水鏡と顔を見合わせる。そうした話は、港町に来るにあたり聞いているが、人間がいない、ガラスがいるという表現はどういうことだ。
「山田は彼のその発言を元に、職人街を探って回ったのだそうです。そのおかげで、当時の社会部はてんてこ舞い。編集長が社員の失踪事件を追って、ガラス職人の話を聞いて回り始めたのですからね。
でも、結果は駄目だったようで、佐藤の失踪届けは取り下げられることなく、そのまま死亡扱いになりました。山田も仕事の遅滞が目立つようになり、職を離職。その後はようとして行方が知れません」
「それじゃあ、久住君が出会ったのはそのヤマダという男なのか」
「さて、それははっきりしません。行方知れずのヤマダが未だに佐藤を探しているとも言えますし、ヤマダの名を騙る別人かもしれません。ただ、私は重要なのはそこではないと思うんです」
ごきゅ。等々力の喉が奇妙な音を鳴らした。水鏡が音葉のジャケットの裾を掴む。彼女に目をやると、珍しく小さく震えていた。
「重要なのはですね。久住さんは、そうした来歴をもつ人間を名乗る者に声をかけられたということですよ。あなたは職人街で話を聞いて回るうちに、その噂に関わる人達を引き寄せてしまった」
等々力を見る鷲家口の顔から血の気が引く。だが、音葉は運転席の真後ろに座っているため、等々力がどのような顔をしているのかわからない。水鏡に目をやるが、彼女は車の外を気にしているように見えた。
彼女の視線を追いかけて、外を見ると、それらはいた。
駅前の交差点に向かう道だ。多くの人間が歩いていることはおかしくない。
だが、道を歩く人間たちが一様に、この車を眺めているのはおかしい。それに彼らの目は酷く黒い。まるでガラス玉のようだ。
「君は、そんな素性の人間に、この町には裏路地があるという仮説を話し、その当たりをつけてしまった。ガラス細工に色々な加工ができる、なんてことにも目をつけていたそうじゃないですか。まったく、勘がいいというか、常識に縛られないというか、そういう人というのはいるものですね」
等々力の声がどんどんと大きくなっていく。声量が上がるにつれて、彼の声はまるでガラスに反響したかのようにひび割れて、ぼやけていく。
「等々力?」
鷲家口の呼びかけに答える代わりに、等々力は交差点に入った車のハンドルを勢いよく回した。ブレーキを踏まずに曲がろうとしたために、車体が大きく揺さぶられ、音葉は運転席側のドアに身体を叩き付けられる。揺さぶられてバランスを崩した水鏡を受け止める。
「音葉、近くにいる。すぐ近く、この車の中にも」
転倒ことなく曲がり切った車両は、職人街に向かってスピードを上げて走り続けている。鷲家口の声がしない。音葉は、何も考えず、右腕を運転席に突きだした。口元は自然に動いている。
「水鏡、スペードの1だ」
身体が少し軽くなり、右腕だけが急に質量が増える感覚。運転席に突きだした右腕で、等々力の首元を締める。首に触れたはずなのに、固く、冷たい。
「なるほどやはり勘が良い。ですが、素手でガラスを壊すのは無理だと思いますよ」
ごきゅごきゅ。運転席からあの奇妙な音が聞こえる。運転席と助手席の間から、後部座席に丸い何かが飛び込んできた。それは運転席側に寄っていた音葉と水鏡の方を向いて、にたりと笑った。
「昨日はよく眠れましたかな。私は音葉君の話が気になって方々を調べ回ったんです。君の視点に基づいて街を歩いていたら、気になる場所を見つけましてねえ。おや、私の顔、忘れちゃいましたか?」
東羽新報の山田ですよ。山田寿。
ガラス製の人間の頭はそう言って、嬉しそうにあの音を鳴らした。
*****
身体中に走る痛みで意識が戻った。目を開けると視界が横転しており、車が横転したことがわかった。幸いなことに車体に変形はなく、なんとか車の外に出られた。
助手席から這いだしてみると、駅前の坂を下りて、職人街へと向かう交差点で車両が横転したことが分かった。ワイシャツはぼろぼろで、身体のあちらこちらが痛いが、骨折棟はないようだ。
鷲家口眠は何が起きたのかを確かめるために周囲を見回した。横転しているのは眠たちが乗っていた車だけだ。遠くからパトカーのサイレンが聞こえ、歩道には野次馬の観光客が集まってきていた。
「等々力、久住君、水鏡君、大丈夫か?」
運転手と同乗者のことを思い出して、車の中を覗きこんだが、三人の姿はどこにもない。再度あたりを見回しても、彼らの姿は見えなかった。だが、救急車が来ている様子もない。
「おい。誰か、運転手たちがどうなったかを知らないか?」
声を上げてみても、野次馬たちは車に寄ってくる素振りすらみせない。くそっ。思わず口から悪態が出た。
事故の前に何が起きたのかを思い出そうとしたが、頭が痛い。
等々力の車に乗って、病院から戻ってきた。その道すがら、彼は久住音葉が出会った山田という名前の記者について話していたはずだ。
その話の中身が途中から変化して。駅前の交差点で等々力が急ハンドルで車を曲げたその時、眠は大きく身体を振られ、何か固いものに身体を打ち付けて気を失った。
駅前からこの交差点まで、眠たちの車は坂道を下りてきて、事故が起きた。
何故、等々力はあのような運転をしたのか、そもそも、彼は久住たちに対して何を話していたのだろうか。意識を失う寸前に見えた後部座席の様子、水鏡紅は明らかに運転席の等々力を恐れていた。だが、それまでの経緯に、彼女が彼を恐れる要素が思い至らない。
ようやく警察の車両と救急車が交差点にたどり着いた。とにかく、事情を説明して等々力たちを探してもらわなければならない。
「鷲家口先生! 大丈夫ですか?」
聞こえた声に、眠の身体は力が抜けたように崩れ落ちた。駆け寄ってくるのは、眠に依頼をした警察官、等々力だ。
「交差点での事故と聞いて着てみれば、鷲家口先生ですよね。大丈夫ですか。その様子だと大きな怪我はないように見受けられますが」
「等々力。なのか?」
「そうです。すみませんでした。午前中は同行するとお約束していたのに、急に別件が入ってしまいまして。病院の方には佐藤という刑事が顔を見せたと思いますが」
病院に来たのは間違いなく等々力だ。まるで何かに化かされたかのようだった。
「等々力。車には同乗者がいたんだ。二人、いや三人いた。その姿が見えないんだ」
「三人ですね。わかりました。探してみましょう。まずはその傷を手当てしましょう」
手当。手当をしている場合ではない。何か、妙なことが起きている。その解明のほうが先なのではないか。
眠は等々力の差し伸べた手を払い、その感触に身体が固まった。
「等々力。手を貸してくれ」
一度払った手を掴み立ち上がる。等々力の手は、男の手にしては柔らかくそして温かい。眠は病院で、等々力と手がぶつかったときのことを思い出した。
あの時の等々力の手は固く、冷たかった。まるでガラスのように。
「おいおい、うそだろ」
頭をよぎる仮説に、眠は意識を失いそうだった。
久住音葉は間違っていなかったのだ。
*****
目の前で増えた海月は、団地の上空に浮かび上がるとさらにいくつかに分かれた。しばらく上を泳ぐと、力を失ったかのように団地に下りてくる。各部屋のベランダや共用の通路を歩く人々の近くを通ると、少し生気を取り戻したように浮き上がり、そして分裂する。
海月が横を通ったのちは、人々の顔からほんの少し力が抜ける。だが、彼らには海月の姿が見えていない。
あの海月は人知れず、人々の生気を奪って増えている。特に根拠はなくそんな印象を持った。水鏡は、あれを退治すると言っていた。当の水鏡の姿が見当たらなかったので、海月がどの程度いるのかの確認を兼ねて団地中を探し回ることにした。
しばらく歩くと団地の端で海月が固まっているところを見つめている水鏡の姿を見つけた。水鏡も音葉を見つけたらしく、大きく手を振る。
「あそこ、海月が固まっているの。たぶん、発生源なんだと思う」
「あの海月を、どうやって退治するんだ?」
一番尋ねるべき質問をした。だが、それに対する水鏡の答えはない。彼女は答える代わりに、スペードの1の札を出した。
「このトランプが何だっていうんだ」
「すぐにわかるよ。音葉。私の名前を呼んで。あの海月はあってはなけない。手伝って」
記憶が消える前の自分が、彼女とどういう約束をしていたのか思い出せない。そもそも、そんな約束があったのかどうかすら、怪しいと思っている。
だが、彼女の願いに、身体は自然に応じていた。まるでそうすることが正しいと知っているかのように。
「水鏡紅。あの海月の鑑定をしてくれ」
自分が口にした言葉の意味も分からないまま、水鏡の気配が変わるのを見つめる。彼女の瞳の奥から何かがあふれ出してくる。目に見えないそれは音葉と彼女を包み込み、マンションの壁に張り付いている海月をも包み込む。
「クラブの1。あれは、力を集めて増殖する。単純に、増えることしか知らない」
音葉、ノイズをかき消して。
スペードの1。彼女の手にある札の名前を口にして、音葉はマンションの壁に向かって駆けだしていた。
自分が何をやろうとしているのか、理解できていない。スペードの1。それを始めて見せられた時のことをぼんやりと思い出す。机にめり込んだ両手、ほんの少し軽くなった身体。水鏡はそれを何と言っていたか。
壁に衝突する寸前で、地面を蹴った。普段は30センチもジャンプできれば上出来だ。しかし、音葉の身体はそれよりも高く飛び上がった。少し手を伸ばすと、二階の排気口に手が届く。伸ばした右手だけが妙に質量があるように感じられ、音葉は右腕の力だけで、自分の体を持ち上げる。そして、壁につけた足で再度上へと飛び上がる。
二回ほど繰り返すと、音葉の身体は4階部分と同じ高さまで飛び上がっていた。目の前には角部屋の窓に群がる海月。音葉は、海月に向かって、力任せに拳を振るった。拳に触れた海月が消滅していく。
海月に覆われていた窓が顔を出す。窓の奥にある男の顔が音葉の姿を捉えたようにみえた。だが、男は音葉に気が付く様子がない。跳躍が終わり、身体が地面へ向かって落ちていく中で、音葉は海月が角部屋に集まっていた理由がわかった。
男の首に巻き付いている白い縄。顔から飛び出して何も見つめることがなくなった瞳、弛緩した顔。
あの角部屋の男は、自殺したのだ。
地面に着地して角部屋を見る。音葉の拳がぶつかった海月たちはいくらかが消え、いくらかが散った。団地全体に餌場を求めて浮遊していく。
あの海月はあってはならない。水鏡の言葉が耳元で囁いた。
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