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2025.01.22 Wednesday
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ネガイカナヘバ10
2016.05.03 Tuesday
黒猫堂怪奇絵巻6話目 ネガイカナヘバ掲載10回目です。
ネガイカナヘバ1
ネガイカナヘバ2
ネガイカナヘバ3
ネガイカナヘバ4
ネガイカナヘバ5
ネガイカナヘバ6
ネガイカナヘバ7
ネガイカナヘバ8
ネガイカナヘバ9
今までの黒猫堂怪奇絵巻
黒猫堂怪奇絵巻1 煙々羅
黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る
黒猫堂怪奇絵巻3 とおりゃんせ
黒猫堂怪奇絵巻4 迷い家
黒猫堂怪奇絵巻4.5 薄闇は隣で嗤う
黒猫堂怪奇絵巻5 キルロイ
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ネガイカナヘバ1
ネガイカナヘバ2
ネガイカナヘバ3
ネガイカナヘバ4
ネガイカナヘバ5
ネガイカナヘバ6
ネガイカナヘバ7
ネガイカナヘバ8
ネガイカナヘバ9
今までの黒猫堂怪奇絵巻
黒猫堂怪奇絵巻1 煙々羅
黒猫堂怪奇絵巻2 虎の衣を駆る
黒猫堂怪奇絵巻3 とおりゃんせ
黒猫堂怪奇絵巻4 迷い家
黒猫堂怪奇絵巻4.5 薄闇は隣で嗤う
黒猫堂怪奇絵巻5 キルロイ
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武道館の扉を開けて中に入ると、向かいの本校舎にでた。変異性災害の影響で異界化した土地ではままあるとわかっていても驚きを押さえられない
慌てて振り返るも、火群の後ろを続く秋山恭輔と秋マコトの後ろにあるのは、本校舎の下り階段だけだ、秋マコトは突然のことに驚いて周囲を見回しているが、秋山恭輔は動揺した素振りを見せない。
「どうやら、そう簡単に武道館には近づけないようですね」
事態の核心がそこにあるということか。
「さて、どうでしょう。ただ、武道館の中からは確かに水蛟の気配がした。フブキがいるとすれば、武道館でしょう」
武道館の前に立った時の様子では、それほど時間はなさそうだ。
火群たちが異界に踏み込んでから15分。敷地全体を包み込だ異界が、突如武道館を中心に収束を始めた。収束の速度は緩やかだが、いずれ異界全体が武道館に収束する。
収束した時点で異界の中にいた者が無事に異界から脱出できる保証はどこにもない。
「秋君。七不思議では、影の道を踏んでしまうと学校から出られなくなり、地図を辿れば旧校舎へとたどり着けるんでしたっけ?」
秋山が連れてきた民間人、秋マコトに尋ねると、秋はこくりと頷いた。初めに獏に殺されそうになっているのを見た時にはどうしたものかと思ったが、案外と適応能力が高い。
影の道。おそらく、校舎内にできる影のことを示すのであろうが、陽波高校は現在、異界を構成する無数の声に包まれており、校内はどこもかしこも暗い。影の道を避けて歩くことなどできない。
「しかし、校舎の外は違った。異界の中でも光に照らされた部分と影になっている部分はあった。おそらく、武道館の入口は影に覆われていたのでしょう」
つまり、火群たちは影の道を踏んで迷宮に迷い込んだ。
「ならば、ここから出るのにはルールに従うのが早い。地図を見つけましょう」
そういって、秋山は懐から携帯端末をとりだした。
ARを利用した結界。種さえわかってしまえばそれほど難解ではない。秋山は携帯端末で校内を映しながら結界の繋がり、道を探して進んでいく。火群は秋マコトを引き連れて、秋山の後ろをついて歩いた。
自分でも同じように携帯端末をかざしてみれば、校内には多種多様な落書きがなされていることがわかる。クラスメイトとの雑談、進路の悩み、部活の不満、生徒たちのあらゆる声が校舎中に書き込まれている。
ここは異界であり、生徒たちが生活する現実とは違う。現実の校舎にどの程度書き込みがなされているかはわからないが、発生して間もない異界がここまでの書き込みにあふれているのは奇妙ではないか。
まるで、はるか昔からここに異界があって、多くの生徒を呑みこんでいたように見える。
校庭に面した教室にたどり着き、窓の外を覗き込む。異界は少しずつ縮まってはいるが、未だ敷地のほぼ全体が異界と化している。水が引いた校庭の中では、異界に引き込まれた人達が幽鬼のようにふらつき、行く当てもなく彷徨っている。
おそらくは異界の気配に当てられたのだろう。彼らは精神を汚染され、何もわからないまま異界に満ちた沼から出られずにいる。
「火群さんには、あの異界とこの校舎、どう見えているんですか」
秋山の問いの意図がよくわからない。教室の中に目を向けると、教卓の下に書かれた落書きを見つけたのか、秋山が教卓に首を突っ込んでいた。今までと同じように、落書きの向こうは別の空間に通じているらしい。
教卓の高さ、奥行きを無視して、秋山の身体が教卓の中に入りこみ、すっぽりと教卓に身体が消えてしまう。
後を追いかけて教卓の下を覗き込む。何の変哲もない教卓そのものだが、下の区間に腕を入れると何かに引かれるように身体が呑みこまれる。気が付けば火群は理科室の実験用テーブルに腰かけていた。向かいには秋マコトが座っており、秋山が携帯端末を使って理科室の中を視て回っている。
「それで、火群さんには、この校舎はどう見えているんですか」
急いでいるはずなのに、秋山は静かに火群に尋ねる。まるで、香月フブキの元にたどり着くよりもその答えを聞くことのほうが事態を解決するのに必要であるかのように。
「学校の七不思議にしては校舎が静かだ。静かすぎるといってもいいかもしれないが、件の本に書かれた七不思議の通りだろう。あの七不思議と異なるところがあるとすれば」
「校舎の外」
そう。校舎の外の様子が、陽波高校七不思議に描かれた様子とまるで違う。沼地に獏、そして沼の中に沈んでいく人々。窓の外から見えていた校舎の外は、大量の落書きにあふれてはいるが静かな校内と対照的だ。
この二つの空間は、完全に遮断されていて、混ざりあわない。校舎の外に満ちていた甘くすえた匂いが校内には一切しない。校内に漂うのは人の匂いが付く前の、新築の建物の匂いだ。それでいて、大量の落書きがこの異界に多くの人々が取りこまれたことを伺わせる。
「思った以上にアンバランスだ。秋山、君の言う通り、この異界は目的の異なる者たちが何人も関係して出来上がったものだろう。だが、私の感想を聞いても、何も解決には繋がらないんじゃないか」
おおよそ秋山も同じことを考えているのだろうから、火群に意見を求める理由がない。しかし、秋山は首を横に振った。そして、秋マコトにも火群と同じ質問をする。
「僕は、何が起きているのかわからない。でも、僕はこれに似た光景を見たことがある。いえ、悪夢みたいな光景を見たことがあるわけではないんです。ただ、この静かな校舎は、美術の授業で見た絵によく似ていると思って」
彼が語る絵なら、火群も見たことがある。「見捨てられた街」。海に消えゆく無人の街を描いた絵画のはずだ。なるほど、校舎と街の情景では全く異なるが、この妙な静けさについていえば、共通項があるといってもいい。
「それで。秋山、私と秋君の答えがなんの意味を持つ」
彼は言葉を返すことなく携帯端末を投げた。キャッチした携帯端末の画面は、件のARアプリのままだ。火群は秋山がやっていたのと同じように、辺りの壁に携帯端末を向けた。
「ん、なんだい。これは」
――なんだい。これは。
今、秋山と話した内容が壁にかかれている。
画面に写った文字を読んで、火群は思わず息を呑んだ。そこに目を向けると、火群が先ほど口にした感想が壁にかかれている。
校舎内でなされたであろう雑談に交じり、火群たちの会話が並んでいる。それらの文字の合間を埋めるようにして、生徒たちの諦めの言葉が浮き出てくる。
「更新されている?」
いや、それはおかしい。校舎の敷地ごと異界化している現在、理科室に立っているのは現実、異界含めて火群たち三人に限られる。敷地に入りこめば、もれなくこの異界にたどり着いてしまうのだから。
なら、外からの書き込みか。しかし、それにしては速度が早すぎはしないか。それに、火群の言葉が壁に書き込まれていたことにはなんの説明もついていない。
「ARを使って異界への道を作る手順にばかり気を取られ過ぎたかもしれません」
秋山は理科室の天井を見つめる。彼の目には端末を通して映る書き込みは見えていない。そこにあるのは単なる白い天井のはずだ。
「おそらく、端末が写す言葉全てが陽波高校七不思議の一つなのだとしたら……これは、学校全体の、いや陽波高校に関わった人間全ての声を拾っている」
こういう手合いは、フブキと滅法相性が悪い。
*****
君には才能があるよ。面白い。もっと練習をしてみるといい。
だが、学問をおろそかにしてはならない。常に他の選択肢を残したまま進めるんだ。
成績が下がってきてしまった。それなら、君の挑戦はここで打ち止めかもしれない。
方針転換をするなら今のうちだ。新しい可能性を見つけることも、若いからこそできる。
それは欺瞞だ。四方から響き渡る声に耳を塞いだ。彼らの声は、こちらのためを装って、実際は自らの思い通りにこちらを誘導する、気づかぬように人生を変容させていく。
彼らは彼らの求める形に人間を育て上げていく。ここは、人間という商品を製造するための養殖場だ。養殖場に入れられた側は、その事実に気が付くことができない。ただ、自分の生き方を、自分の望みを捻じ曲げられていく。
これが彼らの手口なのだと知った時には、既に自分は自分でなくなっている。
「そんなことはない。君は君だろう。ほら、自分の名前を口にしてごらん」
くぐもった声が身体の内側から響いてくる。それが、自分が彼らに反発するために発した声なのか、自分の言葉なのかはわからない。
私は。私の名前は。
口を開いたが、喉がひりついて音が出ない。これでは、名乗ることはできない。このままでは声から逃れることができない。私は、私でいることができなくなる。
だが、不思議と焦りはなかった。私は、以前にも同じものに巻き込まれたことがある。その時は、名前を名乗ろうとして、声に呑まれたのだ。
目を閉じて、呼吸を整える。身体の内側でも、外側でも響いている声に意識を持っていかれないように、以前に声を聴いた時のことを思い出す。
記憶に引き摺られ、内側に響いていた声が身体の外に漏れていく。全身を引っ掻くような感触が、私の身体の形を思い出させてくれる。身体を境界に、内側と外側が分かれていく。
足は地面についている。手は空を掴んでいる。私はここに立っている。
瞼を開くと、辺り一面は白く、上下がよくわからない。一面の白の中には諦めの声と彼らの声が絶えず響いている。気を緩めると、再びその中に呑まれて、消えてしまいそうだ。
落ち着いて。目を閉じていたときと同じことを考える。私はここに立っている。私の足元が下で頭がある方が上。右手。左手。私の身体を基準に、方向を定めていく。
ここは、声に呑まれ、声と一体になった私の中だ。自分を取り戻す方法は必ずここにある。肝心なのは、私を取り戻すことで、それは私と声が別のものだと切り分けられるかどうかにかかっている。
そのためには、私と同じように、声にも形が必要だ。以前に呑みこまれた時、私を壊したのは樹木だった。
目の前の空間に声が集まり、記憶の中から樹木の形を再現していく。庭先に生えた一本の樹。それは地中深くに根を張り、そして、根の先から町中に目に見えない本物の根を張り巡らせた。
再現された樹木もまた、私の脚より下につき出た根っこの先から無数の光る線を走らせる。空間中に広がっていた声は、その線に寄り集まり、樹木の中へと吸い上げられていく。
苗木に過ぎなかった樹木は見る見るうちに形を変え、背丈を伸ばし、そして青々と葉を茂らせる。葉が茂ったころから、足元から甘くすえた匂いが立ち上るようになる。樹木が集めた声が栄養分としてではなく、樹木を変容させる毒として樹木に流れ込むようになった兆候だ。
やがて、樹木は本来付けるはずのない花をつけ、薄気味悪い実をつけていく。
一見すると、桃か梨にしか見えない。黄色く、角度によっては肌色に近い。
目を惹くのは表面にある人の顔らしきくぼみだ。目のくぼみが二つ、くぼみの下に口と思われる筋が入り、そこから果汁が漏れ始める。
果汁が下に垂れるたびに、果実は小さく揺れ、笑い声を立てる。
そうやって、自分たちがここにいることを、この樹木は自分たちのモノになったのだという主張を続ける。けれども、彼らは根本的に誤っている。樹木を支配して、果実を実らせたところで、彼らができるのはせいぜい果実であることを主張することだけ。
私は、彼らに向かって足を踏み出す。一歩。二歩。近づくたびに果実の揺れは大きくなり、やがて、耐え切れなくなった果実が数個、樹木から落ちて転がってくる。
「厭だ厭だ。またあの子だ。あの子が来ると時化るのよ」
「あらやだ、あなたもそう思っていたの。そうよね、あの子、ちょっと妙なのよ。そもそも、●●●●は、××××だから、ほら、目を合わせちゃだめ」
右足にぶつかった二つの果実は見覚えのある顔立ちをしている。私と視線があった途端、彼らは話すことを止めて、私の脚の下へと落ちていく。そして、形を失い再び樹木へと吸い取られていった。
「結局は子供の遊びだろう」
「新聞部の部長が少し変わってるんだよ。あれ、見た目はかわいいんだけどな」
「かわいい? お前、あんなのが趣味なのか知らなかったわ」
左足に転がってきたのは三又に分かれた果実だ。分かれたそれぞれの部分が、少年の顔になり口々に何かを罵っている。左足を向けてやると踏まれると思ったのかそそくさと転がっていく。だが、途中で別の果実とぶつかり砕け、樹木へと還っていく。
「ぼーくはうみのこーしーらなみのーしらなみしーらなみしらなみのー」
三又を砕いた果実は歌を歌いながら延々と転がっていき、私の前を超えて転がっていく。
気が付けば樹木からは次々に果実が落ち、その果実たちは思い思いの話をしてはその虚ろな眼と偽物の口を動かし、力尽きていく。
彼らは私に何かを求めたわけでもない。私の祖父についてもそうだ。彼らはただ、行き場を失い樹木に集まり、結果として樹木を支配し、他も支配できるものと誤解した。
彼らが支配できたのは自分の陰湿な心だけだ。それすら支配できず、植物に押し付けるしかなかった。その結果生まれた自分たちの現身のことを、彼らは薄気味が悪いと拒絶した。
「あなただって気味が悪いと思うでしょう。だから、私たちを斬った。何度も私たちのことを思い出す癖に、私たちとおんなじ癖に、特別なふりをして、そうやって私たちを踏んで!」
足元に現れた果実は私の靴に自分から向かってきて、つぶれた。
「○○○○の癖に生意気なのよ。なまいき!なま!いき!いきいき!くさい!ああ、くさい」
崩れていく果実たちは自分たちの想いすらまともに言葉にすることができない。ただ、崩れて、言葉を漏らしてそして朽ちていく。
この程度のもの。私は樹木の前に立って嫌悪感を持った。だが、この程度のものと思っていても身がすくむ。この気は、私の大切な人を奪っていたのだ。そう、あのとき私に力があれば、誰かを守れる力をもっていれば、話は違っていたはずだ。
「そう。でも、あの時、力がなかったという事実は変えられない」
樹木に実った一房の果実が揺れながら私を見る。丸みを帯びた果実の表面には、二つの意思の宿った瞳が付いている。房に近いところについた瞳はしきりに瞬きを繰り返し、その下の瞳はひっきりなしに周囲を見回す。
他の果実たちのように薄ぼんやりとした気配を纏わず、私に向かってはっきりと意識を向けてくる。
「あなたが、あの時、力を持たなかった。その事実は買えられない。あなたは、救うことができなかった」
でも、今ならやり直せる。
「でも、私たちならやり直せる。どんなことだって。どんなときにだって」
私は目の前の果実を知らない。私の声に溶けてしまった記憶の中に、彼女のような意識を持つ果実はない。
彼女?
「考えなくていい。願うだけでいい。私たちは願いを叶えられる。あと一歩踏み出せば、全ての願いは叶えられる。あなたはそれに耐えられる」
果実から聞こえる声は男とも女とも判別がつかない。人間の声にしては無機質で、酷くノイズがかかっている。けれども、私には目の前の果実が女であることがわかった。
そして、彼女は私の外からきたものであることも。彼女は私に流れ込む声の本流だ。
「どうしたの。叶えたい願いはない?」
果実の問いかけに合わせて、樹木の枝に花が咲く。この世のものとは思えない銀色の花。その花弁を見れば、それが桜を模したものであることは想像がついた。銀色の花、願いを問いかける果実。
「一夜桜は願いを叶えてくれる。願いのない者は一夜桜を見てはいけない」
私の言葉を肯定するように、樹木がざわめいた。私の願いを述べろというように。
「陽波高校七不思議は、願いを叶えるための儀式」
樹木がぴたりとざわめくのを止める。
「似たような話を知っている。願いを、人の記憶を覗き込んで、その風景を作りだす」
そう。彼は自分が出遭った怪異のことをそのように説明した。いつものように、少し面倒そうに。ベッドに寝ている自分の体の状態など、まるで他人事のように。
彼は、その現象のことを確かこう呼んでいた。
「迷い家」
そして。彼は、秋山恭輔は、私に話した。
「迷い家は、過去の記憶から怪異を生み出す呪術的装置としての役割を担っている」
私のことを見ていた果実が瞼を閉じた。私は、樹木に近づき、その果実を手に取る。
「どうしたの? 私に願いを叶えてほしいのでしょう」
果実は答えない。私は果実に宿った二つの目を知らない。けれども、彼女が誰であるか、見当はつく。
「まどろっこしい。出てきなさいよ。二月正。あなたが望んだ七不思議の結末、私が全部暴いてあげる」
私の名前は香月フブキ。変異性災害を祓う祓い師だ。
*****
理科室を出ると携帯端末は二つの矢印を捉えた。
一つは武道館の方向へ、一つは校舎の奥へ繋がっている。矢印の上には、長鼻を垂らして塀越しにこちらを覗いている男が描かれている。男の絵は校舎の奥を覗き込んでいる。
「キルロイ参上って知っているか?」
端末の画面を覗き込んだ火群は落書きがなされている場所の前に立ち、壁を撫でた。
「アメリカ軍のほうで流行っていた落書きだよ。怪異でもなんでもない」
さて、どちらに行く。秋山恭輔。火群は落書きを塞ぐように、秋山の前に立つ。
「さっきの見立てが正しいなら、今回の件は香月との相性は酷く悪い。他方で秋山、君はこの手合いの怪異を収めるのを得手としている。この矢印のどちらにいけば校舎中に広がるこの怪異を祓えるか、君が判断するんだ。私は後ろの彼をつれて、君とは反対側を探す。私のほうが当たりだったとしても問題はない。私が遅れを取ることはないのは知っているだろう?」
「それに、僕たちが遅れを取っている間に、外側から応援が来ます。内側から怪異を祓えずとも、収束が始まっている今なら何とかなる。そういうことでしょう」
「よくわかっているじゃないの。私は君たちの優秀なところが好きでウチの係に引きこんでいるんだ。いつもそのことを忘れないでいてほしいね」
さて、どうする? 火群の問いに、秋山はもう一度、校舎の全景を思い浮かべる。ここで矢印が二つに分かれているのは、おそらく片側は正解の道で片側は外れの道。それを選択しろということだ。
そして、ここでいう正解とは、フブキのいる武道館への道ではない。七不思議の6つ目までを見つけ出したものに与えられる特典。七つ目の七不思議。そこには、校内の声を拾い続けるモノの核心があるのだろう。
「僕は、右に行きますよ」
「そうか。じゃあ、私と秋君は左だ。キルロイに会えることを、祈っているよ」
火群は戸惑っている秋を引きずるようにして左へと進んでいく。彼らの姿は廊下に溶けていき、隣の教室の前を通り過ぎるまでもなく、姿を消した。彼らが消えたことを確認して、秋山は後ろを振り返る。一歩前に出ると、廊下が波打ち、視界が揺らぐ。
廊下の揺れが収まった頃には、秋山は美術室の前にいた。手に持った携帯端末がアラートを発している。
美術室の入口前にカメラを向けると、ひときわ大きいキルロイの絵が床に描かれていた。
美術室の扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
*****
廊下を数歩歩いただけで、景色が歪んだ。歪んだ景色の中に校舎の風景とは異なる景色が混ざりこむ。それに手を伸ばすと、景色の歪みが解消されていく。
すっかり視界が元通りになると、火群と秋マコトは武道館の玄関内に立っていた。
心技体の筆字が額に入って飾られている。しかし、その周辺には校舎の外の床に咲いていた花が開いている。足元に目をやれば、室内にうっすらと水が入ってきているのが分かった。水は武道館の中へ向かって吸い寄せられている。
「ここは、武道館、ですよね」
背後で秋マコトが不安げな声を上げた。
「あの、本当は美術室に着くのが正しかったんではないですか」
案外と鋭い。
「どうしてそう思うんだい。私は、私の部下がいる場所にたどり着ければそれでよかったんだけれどね」
「いえ、ただ二月正って、たぶん美術の如月先生のことか、その家族の人のことだろうと思っただけです。それに、この異変は異変の注進を見つけないと治らないのでしょう」
適応の速さと言い、どうやら本当に使える人材であるようだ。
しかし。目の前の光景は、秋マコトの想像を超えていた。秋山の、そして火群自身の想像さえも。
「なんだこれは」
武道館の中央には水柱が立っている。武道館の外から吸い寄せられた水は、武道館の中心に集まり、天井に向かって噴き上げていた。天井は、異界化した校庭と同様に紫色の水に満ちている。まるで、天地が逆転したような空間で、剣道の胴着を身に付けた学生が一人へたり込んでいる。面は半分に割れ、胴着にも獣に引っ掻かれたような鋭い爪痕がに残されていた。彼女は、ただ放心した表情で水柱を見つめている。
そして、もう一人。本を片手に水柱の隣に立っている男がいた。水色のワイシャツにベージュのズボン。大学生のように見えるが、右腕にはべっとりと色とりどりの絵の具が付いている。絵の具で汚れたワイシャツの袖が目立ち、ほかの印象がとりたててない。
男は、水柱に向けて何かを語りかけていたが、火群たちに向かって顔を向けた。
「キルロイとは別の道を選ぶとは思わなかったな」
「あんなこれみよがしな二択を示しているのに、キルロイ参上をあえて選ぶ奴は気得だよ」
自らキルロイの方向へと進んだ部下のことはこの際忘れる。
「へえ、この学校であの落書きがキルロイ参上だってわかる人に初めてであったよ」
「あんな落書きを知っている高校生がいたら、それは気味が悪いね」
「へぇ。そうか。君は、この学校の人間じゃないね。そう、確か写真を見せてもらったことがあるよ。変異性災害対策係の……火群たまき係長、だったかな」
こちらの出自を知っている。
「なるほど。しっているなら早い。いますぐこの状況を収束させたい。水柱の中にいる香月フブキをこちらに渡してほしい。彼女はこんな仕掛けに嵌って消えていい駒ではない。
優秀な駒を減らされるのは、ウチの部署としてもつらいのさ。わかるだろう、二月正。いや、如月一」
男は、うっすらと目を細め、火群の顔を見た。線が細く、顔に特徴がない。如月一は右手に持った一冊の本を傾ける。
「その後ろにいるのは、秋マコト君か。ここに入ってきたのに正気を保てているとは思わなかった。活かしようがない才能ではあるが、才能であることは確かだ」
秋の身体が硬直する。よく知っているはずの教師の姿に驚いたのか。いや。如月に牽制をかけようと思ったが、火群の左手も動かない。
「祓い師というのは、呪術に長けた者だと聞いた。呪術、と聞いたのだからね、フレイザーの金枝篇を思い浮かべていた。実際には、上月君の例のとおり、呪術にはフレイザーが分析した方法以外にも様々なものがあるようだ。
私が使っている呪術も、この学校に渦巻いている力もそうだ。この世には、力を持たないものからは見えない世界が広がっていた。というわけだ」
如月は火群に本を向けたまま、水柱の中に立つフブキへ一歩近づいた。
「しかし、君たち祓い師は、その多様な術式の中に埋もれて、非常に単純な呪術を忘れている。私たちにとって一番身近な呪術」
名前。意識すればそれほど単純な呪術もない。如月は、こちらの名前を呼んだ際に、火群と秋の動きを掌握した。
「そう単純に身体を縛れるほど、人間の名前には力はないと思うんだけどね」
「つまり、あなたも、上月君も、秋君もこうして身動き取れなくなっているのは、何か別のトリック、あるいは別の力によるものだというわけだ。さて、私はあなた達がここについてから何をした」
火群たちが入ってきてから、彼が行ったこと。それは、火群たちに話しかけたことと、本を手に持ったことだけだ。秋は火群と如月の話の要点が掴めず、また身体が動かないことにパニックになっているだろう。
香月は水柱の中に立ったまま、一向に柱の外のことに反応する気配がない。水は異界の構成物だ。おそらく、今の香月はまともな意識を保てていない。水が天井に向かって噴き上げているのは、彼女が媒介となって水を吸い上げているからだ。
この空間の中で動いているのは如月一のみ。だが、その動きにはこちらの動きを縛り付けるような要素は見られない。
「どうしました。火群係長。私は何もしていないし、あなたの部下も、私の生徒も何もしていない。私があなたの名前を呼んだこと以外に、あなたが身体を動かせない理由はない。
安心してください。私はあなたを痛めつける気はないし、あなたと争うつもりもない。もう少し待っていれば、あなたの望みも叶いますよ」
本を閉じて、香月の元に近寄っていく。水柱の真横に立ち、如月は水中の香月に対して何かを囁いていた。
先ほどまでの顔と違い、表情が宿っている。生徒を見つめる目でも、媒介を見つめる目でもない。あれは、恋人を見つめる目だ。
「生徒と関係を持とうとするってのは、職業倫理に反するんじゃないのかねぇ」
噛みしめた奥歯が痛い。指先へ集めた呪力はまだまとまらない。
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